不穏
王宮では、春の柔らかな陽光が差し込む朝だった。けれどそのまばゆい光とは裏腹に、空気のどこかにざらついた不穏が混じっている――そんな予感が、胸の奥に小さく引っかかっていた。
噂、政治の渦、王族の影。そのどれもが、私の足元を静かに揺らし始めている。
けれど、まだこのときの私は気づいていなかった。
“揺らぎ”は、もうすでに私自身を狙い始めていたことを。
聖務室に控えていた侍女が気を張った声で告げる。
「イレネス様、ロザリア様がお呼びです。至急、応接室へとのこと」
「ロザリア様が……?」
胸がざわついた。昨日、第二王子の前であれほど面目を潰されたロザリアが、私に用があるとは思えない。それでも呼ばれた以上、行かないわけにはいかない。
扉を開けた瞬間、背筋にひやりとした空気が走った。
ロザリアは窓辺に立っていた。真紅のドレスが光を受けて艶やかに輝き、その横顔はどこか掴みどころのない微笑を浮かべている。
「来たわね、イレネス」
「……ご用件をうかがってもいいでしょうか」
「そんなに警戒しないでちょうだい。今日は、あなたに“良い知らせ”があるのよ」
口元に浮かんだ微笑。その裏にあるのは――底の見えない深い闇だった。
「良い知らせ……?」
「ええ。あなた、癒しの力に目覚めたのでしょう? それなら王宮としても、あなたをもう少し深く聖務に関わらせるべきだと判断されたの」
ゆったりと、優雅に歩み寄ってくる。
「ちょうど、王都から離れた辺境に“奇病”が出ているとの報告があったわ。原因も不明で、治癒師も手を焼いているとか。あなたの力があれば、助けられるかもしれない――そう、私は進言したの」
「ロザリア様が……?」
「もちろんよ。聖女候補として、困っている民のために動くのは当然でしょう?」
言葉だけなら正しい。
けれど、その“正しさ”が恐ろしく見えた。
「……でも、なぜ私を?」
「あなたは王城でもっとも清らかな魔力を持っていると、神官たちが噂しているのよ? なら、今のうちに経験を積むことは大切だわ」
そう言いながら、ロザリアは扇をひらひらと揺らし、艶やかに目を細めた。
「それに――あなた、ここ最近“少し調子に乗っている”みたいだから」
「……!」
その声は甘い毒だった。
街で手を繋いだことも、侍女たちの噂も、ダニエルの態度も……すべて、ロザリアの耳に届いている。
「第一王子殿下も、あなたの噂を気にかけておられるわ。聖女候補にふさわしい謙虚さを学ぶのは、とても良い機会だと思うの」
微笑は柔らかく、刃は鋭い。
ロザリアはそういう女だ。
「辺境行きの聖務は二日後。手配はこちらでしておいたわ。準備なさい」
命じるような声音に逆らえず、私はただ頷くしかなかった。
けれどこのときの私は、まだ知らなかった。
“辺境の奇病”が、ロザリアが流した虚偽の情報であることを。
そして、私を待っているのは治癒ではなく――“死”であることを。
◆ ◆ ◆
その日の午後。
王宮の廊下を歩いていると、背後から静かな気配が近づいてきた。
「イレネス」
「ダニエル……?」
振り返った瞬間、胸が波立つ。
彼の表情は穏やかだったけれど、その奥に隠された緊張がひどく濃かった。
「ロザリア嬢の使いが、あなたに辺境行きを提案したと聞きました。本当ですか」
「……ええ。聖務の一環だって」
「聖務? 辺境に奇病が出ているという話は、僕の耳には入っていませんが」
その言葉に、心臓がぎゅっと掴まれたように感じた。
「で、でも私は癒しの力に目覚めたばかりだし、経験を積むには――」
「危険です」
遮った声は、いつになく深い。
「あなたは狙われています。王宮での噂も広がりすぎている。兄上もロザリア嬢も、それぞれ違う思惑で動いている……その真ん中に、あなたがいるんです」
「でも、私は……民を助けるべきで――」
「あなたが消えたら? あなたが傷ついたら? そのとき民も王家も救えない。違いますか」
言葉が出なかった。
ダニエルはゆっくりと息を吐き、私の肩にそっと手を置いた。
「辺境へ行くなら……必ず僕に知らせてください。僕はあなたを――」
そこで言葉を切り、少し目を伏せた。
「……守らなければならない理由があります」
まっすぐな声だった。
胸が熱くなり、何かを言い返そうとしたとき――
「ダニエル殿下!」
遠くから近衛兵が駆けてくる。
「至急、執務室へ! 第一王子殿下が――」
「兄上が? 何があった」
「“例の件”について協議が急務とのことです!」
例の件。
その言葉に、ダニエルの瞳が鋭く細くなる。
「……イレネス。今日は部屋からあまり出ないでください。いいですね」
「うん……約束する」
背を向けて走っていく彼の後ろ姿に、不安の影がゆらめいて見えた。
◆ ◆ ◆
一方その頃――
豪奢な部屋の奥でロザリアは扇を閉じ、ひとつ息を吐いた。
「……やっと、片付けられる」
冷たい瞳は、すでにイレネスを“消す”未来を見据えている。
そして別の棟では、第一王子ラインハルトが薄笑いを浮かべていた。
「辺境へ行かせたか。ふん……良い駒だ。利用価値が尽きたら、そのまま消えてもらえばいい」
二人の思惑は交わらず、しかし狙う先だけが重なる。
それはただ一人――イレネスだった。
◆ ◆ ◆
そして夜。
ダニエルは机に広げられた地図を凝視していた。
「……辺境の村に奇病。どう考えても不自然だ。ロザリアが関わっているなら、なおのこと」
手を握り締める。
「イレネスを……誰にも渡さないし、傷つけさせない」
そのとき、彼の胸の奥で静かに決意が固まった。
彼女が行くなら、自分も行く。
理由はどう取り繕っても構わない。
ただひとつ――
「僕が守る」
それだけは揺るがない。
王宮の影が動き出す中、イレネスの知らぬところで、運命の歯車が大きく回り始めていた。
――新章は、ここから“命を狙われる辺境行き編”が始まる。




