噂が広がる
ダニエルとの初めての外出から一夜が明けた。
胸の奥にはまだ、昨日の夕焼けと、繋いだ手の温度が残っている。
──あれは、夢ではない。
思い返すたび、心がふわりと浮く。
しかし王宮がそんな余韻を長く許すはずもなく、朝の聖務室に入った瞬間から妙な視線を感じた。
「……おはようございます?」
声をかけると、側にいた若い侍女二人がひそひそと顔を寄せ合う。
「ほら、見て。話に聞いた通りよ」「本当に一緒に歩いてたんだ……第二王子と」
一瞬、背筋に冷たいものが走った。
──誰かに見られていた。
街は大祭前で人が多かったし、王城から出る王族に気づく者もいる。
気にしすぎかもしれないけれど、胸の奥がざわついた。
そこへ、扉をノックする音が響く。
「イレネス様、第二王子殿下より文が届いております」
侍女が差し出した封筒は、濃紺の封蝋で閉じられていた。開くと、几帳面な筆跡で短い言葉。
──昨日はありがとう。また時間をもらえたら嬉しい。
体調は万全です。安心してください。
ダニエル
胸が熱くなり、自然と手紙を抱きしめていた。
「まあ……」「手紙まで……」
背中越しに侍女たちのささやきが突き刺さる。
噂は、どうやら王宮の奥まで一気に広がりつつあるようだった。
◆ ◆ ◆
昼前、広い回廊を歩いていると、柱の影から甘い香水の匂いが漂ってきた。
次の瞬間、真紅のドレスを揺らしてロザリアが現れる。
「あら。あなた、ちょうど探していたのよ」
顎をわずかに上げたまま、勝利を確信した貴婦人のような笑顔を向けてくる。その背後には数名の侍女が控えていた。
「何かご用件でしょうか」
「用件は一つよ。──あなた、少し浮かれすぎじゃなくて?」
言葉が鋭く肌を刺した。
反論するより前に、ロザリアは悠然と続ける。
「昨日のこと、聞いたわ。第二王子と街に出ていたんですって。ずいぶん楽しそうに手なんて繋いだらしいじゃない。平民の救世主様は、王族に愛されるのもずいぶん手早いのね」
胸がざわついたが、何も言わないでいると、ロザリアはさらに踏み込んできた。
「勘違いしない方がいいわよ。私はすでに第一王子殿下の庇護を受けているの。聖女候補として、王家に正式に『保護』されているの。あなたとは立場が違うのよ」
ああ――そうだ。
ラインハルトがロザリアを囲った理由。
保護という建前の下で、実質的に“支配”しているのと同じだった。
ロザリアはその優越感を全身でまとい、私を見下ろした。
「身の程を知りなさい。第二王子と多少仲良くしたところで、私の立場は揺るがないわ。それに……王家に近づくのは覚悟がいるのよ。あなたみたいに感情で動く子には、耐えられないんじゃない?」
その瞬間だった。
「ロザリア嬢」
涼やかな声が回廊に響く。
振り返ると、青い瞳の第二王子がゆっくりと歩いてきていた。
「殿下……!」
ロザリアは一瞬だけ顔を輝かせたが、ダニエルの表情はひどく冷たかった。
「あなたの言葉は聞き捨てなりません。彼女に向けるには不適切です」
「わ、私はただ……王家のことを心配して──」
「心配という名の侮蔑は、王家の名を借りた傲慢にすぎません。
ロザリア嬢、私の前で彼女を貶めるのは控えてください」
柔らかい声なのに、明確な拒絶があった。
ロザリアの表情から血の気が引く。
「第二王子殿下……ラインハルト殿下は、私を保護すると――」
「兄上とあなたの関係は、私には関係しません。ですが、イレネスを侮辱することは許しません」
ロザリアは唇を震わせながらも、どうにか笑顔を保った。
「……失礼いたしましたわ。私、聖務がありますので」
足早に去っていく後ろ姿は、誇りと不安が入り混じって揺れていた。
◆ ◆ ◆
ロザリアが完全にいなくなったところで、ダニエルは小さく息を吐き、こちらに向き直った。
「……大丈夫ですか?」
「うん。ありがとう。助かったよ」
「あなたが傷つくのは嫌なんです。誰が相手でも」
その言葉は静かで、しかしどこか強い熱を帯びていた。
「でも、ロザリア嬢の様子……いつもと少し違う気がします。兄上が彼女を保護下に置いたのは、表向き以上の理由があるはずです」
「理由って……?」
「分かりません。ただ、兄上が動くときは必ず裏があります。
彼がロザリア嬢を囲い、あなたに目を向けている。これは偶然ではないでしょう」
ダニエルは私の手をそっと取った。
昨日とは違う、少し切実な温かさ。
「どうか、気をつけてください。あなたが巻き込まれるのは……耐えられない」
胸がきゅっと鳴った。
自分でも驚くほど、彼の手を離したくなかった。
「ありがとう、ダニエル。私も……あなたを守りたい」
言葉にした途端、彼の青い瞳が静かに揺れた。
「その言葉だけで救われます」
私たちはしばらく、回廊の静けさの中で手を繋いだまま立ち尽くした。
互いの想いが少しずつ重なり始めているのを、はっきりと感じる。
けれどその裏で、王宮の影は静かに伸びていく。
──ロザリアの焦り。
──ラインハルトの冷ややかな計算。
──そして、広がり続ける噂。
温かな時間の影には、確実に何かが動き始めていた。




