静かな病室
王宮の医療棟は、日中でもひどく静かだった。白い石壁に囲まれ、外の喧騒はほとんど届かない。私は侍女に案内され、第二王子ダニエルの病室の前で足を止めた。
扉を前にすると、胸が小さく跳ねた。王族に個人的な見舞いを許される平民など、本来存在しない。侍女は私の緊張に気づいたらしく、柔らかく微笑む。
「お気になさらず。殿下が直々にご指名されたのです」
その言葉が、さらに心をざわつかせた。
扉を軽く叩くと、すぐに中から穏やかな声が返ってきた。
「入ってもいいよ」
部屋に入ると、ダニエルが窓辺の椅子に腰をかけていた。少しだけ痩せた印象はあるが、表情には以前のような温かさが戻っている。光を受けた銀髪が柔らかく揺れた。
「イレネス嬢、来てくれたんだね」
それだけで、胸の奥の緊張がゆるむ。
「お加減はどうですか」
「かなり回復したよ。まだ無理はできないけれど、こうして話すくらいなら問題ない」
言葉に合わせて微笑むと、彼の雰囲気は一層やわらいだ。周囲には薬草の香りがほのかに漂い、部屋の静けさと混じり合って心を落ち着かせる。
ダニエルは、私が差し出した見舞い用の果物籠を見ると、少し驚いたように目を丸くした。
「これは……僕に?」
「はい。市場で良いものが手に入ったので」
「ありがとう。こういう気遣いは本当に嬉しい」
穏やかに笑う表情には、宮廷で見せるものよりも素直な色がある。その違いが、誰にも見せたくない貴重なもののように思えた。
しばし互いに言葉を交わしていると、ダニエルはふと真剣な眼差しを向けてきた。
「この間は、命を助けてくれてありがとう。君がいなかったら、僕はどうなっていたか分からない」
その声音は軽い感謝ではなく、胸の底から湧き上がるような重みを持っていた。
「私にできたのは、ほんの少しのことです。殿下のお力があったからこそ……」
「謙遜しなくていいよ。僕は覚えている。君の手が触れた瞬間、温かい光が身体の奥に流れ込んだ。痛みが消えて、霧の中から引き戻されたような感覚だった」
思い返すように目を細める。その姿が妙に大人びて見える。
「……あの力は、まだ自分でもよく分かりません」
「それでも、僕にとっては救いだった」
ダニエルは言葉を区切り、視線を伏せてから、決意したように顔を上げた。
「イレネス嬢。君が危険な目にあっていると知った時、胸が強く掴まれた。誰かが君を利用しようとしているのではと思うと、落ち着かなくなる」
驚きに声が詰まりそうになる。彼は慌てるでもなく、静かに続けた。
「王宮は複雑だ。兄上のことも、ロザリア嬢のことも、いろいろと動きがある。僕が弱っていた時、君が巻き込まれることばかり考えてしまった」
「私は……大丈夫です。まだ戸惑うことばかりですが、殿下のおかげで助けられています」
ダニエルは安堵したように微笑んだ。その笑みを見て、胸の奥がじんと熱くなる。彼が自分を案じてくれることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
窓の外を風が渡り、カーテンが揺れた。淡い光が室内に広がり、ダニエルの瞳が柔らかく煌めく。
「もう少しだけ話していたいけれど、君の方が疲れてしまうかな」
「大丈夫です。殿下が回復されて、本当に安心しました」
小さな沈黙が落ちる。重くなく、むしろ心の距離が近づくような静けさだった。
「また来てくれる?」
その問いかけは、王子としてのものではなく、一人の青年の素直な気持ちだった。
「もちろんです。お役に立てることがあれば……いつでも」
ダニエルはほっと息をつき、穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとう。君がそう言ってくれて嬉しい」
部屋を出る直前、ふり返ると彼はまだこちらを見ていた。目が合うと、照れたように小さく手を振る。その仕草が意外で、胸が温かくなる。
扉を閉じたあとも、頬の熱はしばらく引かなかった。
(ダニエル殿下……どうしてこんなに胸がざわつくのだろう)
歩きながら自分の胸に触れると、静かに脈が跳ねていた。




