揺らぐ灯火と王子の影
レオンハルト第一王子が去った後、室内に残された沈黙は、まるで誰かの気配だけがまだ残っているような、不穏な重さを孕んでいた。
私は胸に手を当てて息を整える。
ダニエル殿下の横顔は深く陰り、何かを堪えるように固く結ばれている。
「……殿下」
声をかけると、彼はふと我に返ったように私を見た。
「あ……ごめん。怖かっただろう?」
「いえ……殿下が謝る必要はありません」
「でも……兄上の言葉は、時に人の心を必要以上にえぐるんだ」
そう言って軽く笑おうとするが、その笑みは幼い頃に傷ついた子供のように脆かった。
「兄上は昔から優秀で……王宮の誰もが彼を恐れ、同時に敬っていた。僕はずっとその背中を追ってきたけれど……」
そこで言葉が途切れる。
彼は壁に視線を向け、低く呟いた。
「……兄上の“本音”を知る者は、驚くほど少ない」
たったひとりの兄弟であるダニエルでさえ、第一王子の内側を完全には掴めていない。
王宮で育った者なら、どれほど聡明であろうと“レオンハルトという男”の深さに触れられないのかもしれない。
「……帰ろう。イレネス。ここに居続けると疲れるだろう」
「はい」
歩き出したその時だった。
パサ……と柔らかな音がした。
窓辺のカーテンが揺れ、誰かの影が一瞬だけ映ったように見える。
「っ……?」
「どうした? イレネス」
「いえ……誰かが……」
しかし窓を開け放っても、そこには冷たい空気しかなかった。
(気のせい……?)
けれど、胸の奥に残るざわつきは消えなかった。
*
ダニエルに付き添われて私室へ戻ると、護衛たちが控えていた。彼らもまた、王城の異変を感じ取っているのか表情が固い。
「今日は……僕もここでしばらく話していっていいかな?」
「はい。もちろんです」
ダニエルは安堵したように微笑んだ。
けれどそのあと、ふと眉間に皺を寄せる。
「兄上……あんなに興味を示したのは久しいことなんだ」
「レオンハルト殿下が……ですか?」
「ああ。兄上は普段、誰かに期待するような素振りはしない。表向き優しくは見えるが、人の“価値”に対しては、実に冷静だ。だから……」
彼の喉が小さく動く。
「……君を値踏みする目をしていたことが、気になって仕方がない」
その言葉に胸がきゅっと縮んだ。
「私……殿下のご迷惑になっていませんか」
「違うよ!」
強く否定されて、驚いた。
ダニエルは真っ直ぐに私を見つめる。
「僕は……君を巻き込みたくない。でも、君を失いたくもない。だから……」
言葉が宙でほどけた。
何かを言おうとして、やめるように口元を引き結ぶ。
私はそっと息を吸い、彼に歩み寄った。
「殿下。私は……殿下が望むなら、側にいます。望まなくても、勝手に助けに行くかもしれません」
「……っ、イレネス。それは危険すぎる」
「危険でも、殿下を放っておけません」
少しだけ、彼の目が揺れた。
そのまま彼はゆっくりと私の頭に手を置いた。
「……君は、本当に。心臓に悪いよ」
撫でるでもなく、触れるだけ。
けれどその温度が、長い間冷えていた何かを溶かしていくようだった。
「でも……ありがとう。君の言葉が、今は一番……欲しかった」
少し照れたように笑ったダニエルは、いつもの柔らかさを取り戻した。
しかし——その瞬間。
コン、コン。
扉が、規則正しく叩かれた。
「誰だ……?」
護衛が扉を開けると、そこには控えめな身なりの伝令官が立っていた。
だが、その顔はどこか青ざめている。
「だ、第二王子殿下……急ぎの報せが……!」
「どうした?」
伝令官は喉を震わせながら答えた。
「第一王子殿下が……ただいま、王宮内の派閥の半数を“緊急招集”されました。議題は……」
言葉が詰まり、だが絞り出すように続けた。
「“聖女候補の保護体制の見直し”とのことです」
「……っ!」
ダニエルの瞳が鋭く光る。
「兄上は……何をしようとしているんだ……!」
レオンハルトが、動いた。
それは“私”を中心に、王宮の力関係を一気に揺さぶる動き。
胸がざわりと音を立てた。
(……レオンハルト殿下は、まだ私を試すつもりなの……?
それとも……)
彼の本心が、どこにあるのかまるで読めない。
けれど確かにひとつだけ分かっている。
——王宮の空気が、また大きく変わろうとしている。




