底見えぬ人の心
レオンハルト第一王子が部屋を去ったあとも、空気には妙な熱がこびりついていた。
沈黙は重く、誰もが言葉を選びあぐねたように口を閉ざしている。その静けさを先に破ったのは、ダニエル殿下だった。
「……すまない。兄上の言葉、気にしなくていい」
振り返った彼の瞳は、まだ警戒と苛立ちの色を帯びたままだった。
「いえ……私は平気です。殿下こそ、大丈夫ですか?」
ダニエルは苦笑しつつ、額に手を当てた。
「兄上があんな調子なのは今に始まったことではないさ。けれど……今日の兄上は、少し露骨すぎた」
その言葉には、兄弟だからこそ分かる違和感がにじんでいた。
レオンハルトが纏っていた重たい静けさ。あれは単なる権威の誇示ではなく、まるで“自分だけが正しく世界を見通している”と信じて疑わない者の、妙な確信だった。
「……イレネス。今日はもう部屋に戻ろう。休んだ方がいい」
「はい。でも、殿下は……?」
「僕もあとで戻るよ。説明しなければならないことがいくつかある」
そう言いながらも、彼の視線は未だ扉の向こうに向いていた。
何かを恐れるというより、何かに抗うような、そんな目だ。
「殿下……」
思わず彼の袖を、そっとつまんでしまう。
触れた指先に、今やっと戻ってきた温かさがあった。
生きていてくれて、良かった——心の奥でそう思う自分がいた。
ダニエルは一瞬きょとんとしたが、すぐに優しく目を細めた。
「……大丈夫だよ。君がいる。それだけで随分心強い」
「えっ……あ、い、いえ……っ!」
ふいの言葉に頬が熱くなる。
けれどその瞬間、廊下の奥から軽く靴音が響いた。
トン……トン……
足音はまっすぐこちらに向かって来る。
その静けさと歩幅の均一さ。まるで音そのものが練り込まれたような気配。
「嘘……まだいらしたの……?」
部屋の扉が軽く叩かれた。
「入るよ」
返事を待つ気など、初めからなかったのだろう。
扉が開き、レオンハルトが再び姿を現した。
つい先ほど別れたばかりなのに——まるで誰かの背中に影のように張りついていたかのごとく自然な再登場だった。
「兄上……何か御用ですか?」
ダニエルの声が低くなる。しかしレオンハルトは気にも留めず、柔らかく微笑んだ。
「先ほどは急いでいたからね。もう少しだけ話しておこうと思って」
視線がゆるやかに私へ向けられる。
その眼差しは優しげでありながら、まるで心の奥を覗きこんでくるような、冷たい透明さを宿していた。
「イレネス嬢。先ほど“覚悟がある”と言ってくれたね」
「は、はい……」
「その言葉が本心なら安心だ。だが——この城で無事に生き残るには、覚悟よりもっと大切なものがある」
ゆっくりとした歩みで近づいてくる。
背筋に冷たいものが走り、私は足を固めた。
「兄上……彼女を怖がらせるような言い方は——」
「事実を述べているだけだよ、弟よ」
レオンハルトは微笑を保ちながら言葉を継いだ。
「君は優しすぎる。だからこそ、手のひらを返す者たちに痛い目を見る。……それでも構わないが、彼女を巻き込むのは感心しない」
「……っ」
ダニエルの表情に、触れたくはない傷を弄られたような影が走る。
レオンハルトはそれを見て、わずかに口角を深めた。
その笑みは——柔らかなのに、どこか“人の痛みに無関心である者”の笑みだった。
「イレネス嬢」
「……はい」
「君が持つ光は、弟を救った。だがそれは同時に、多くの者が喉から手が出るほど欲しがるものだ」
彼は私の顎を指先で持ち上げるように、目線を合わせてきた。
「自分の身の守り方を知らねば、一瞬で壊される。……聖女候補というものは、そういう立場だ」
その声は優しい。
けれど——まるで心臓の鼓動をつまびくような響き方だった。
「兄上、手を離してください」
ダニエルがレオンハルトの手を強く払いのけた。
レオンハルトは驚くことも怒ることもせず、ただ淡々とその手を振りほどかれたまま眺めていた。
「……やはり、君は弱いね、弟よ」
「何を——」
「弱い者ほど、守ろうとする対象を壊してしまうものだよ」
淡々と、まるで天気でも語るように告げられるその言葉。
ダニエルは言い返そうとしたが、唇を噛みしめて沈黙した。
(……この人は、本当に優しい人じゃない)
遅れて、胸にそう落ちた。
レオンハルトは私に向き直り、最後に一言だけ告げた。
「イレネス嬢。君がどちらに転んでも構わない。ただ——私にだけは嘘をつかないでほしい。嘘をつく者は必ず自滅するからね」
それは警告ではなく、まるで“既に見えている未来”をなぞるような言い方だった。
そして静かに、何事もなかったかのように去って行った。
扉が閉まる。
息が戻るのに、しばらく時間が必要だった。
「……イレネス、大丈夫?」
「……殿下こそ……」
ダニエルは強く拳を握り込んだ。
「兄上に何を言われても、信じる必要はない。……僕は君を守る」
その言葉はまっすぐで、誤魔化しのない温かさがあった。
けれど。
(守る……私の方も、殿下を守れるほど強くなれるんだろうか)
胸の奥がきゅ、と疼いた。
王城の空気は、表面よりずっとずっと深く淀んでいる。
レオンハルト第一王子は——その淀みを自分の水槽のように悠々と泳ぐ、“本物の王族”なのかもしれない。




