喧騒
神殿の回廊を進む途中、侍女に案内された先は王宮の中でも限られた者しか入れない別棟だった。普段は謁見や儀式のために使われる「星晶の間」——王国で最も純度の高い魔力が集まるといわれる場所だ。
扉の前まで来たとき、胸の奥で不安と緊張が渦を巻いた。第二王子ダニエルと会うからだと思っていた。しかし、侍女が恭しく膝を折りながら告げた名前は、まったく別の人物だった。
「イレネス様。間もなく……レオンハルト第一王子殿下がお越しいたします」
(……第一王子殿下が?)
思わず息が止まり、喉がからからに乾く。
この国の次代を担う王太子——レオンハルト。
豪奢な会見よりも実務を重視し、滅多に公の場に姿を見せない人物。私のような立場の者と会うなど、普通ではあり得ない。
扉が開く音がし、ゆっくりと影が差し込む。
整った顔立ちを鋭い知性で引き締めた青年が現れた。王族だけがまとう深紅のマントを揺らしながらも、その歩みは静かでぶれない。噂どおり、威圧ではなく“品格”で場の空気を変える人だった。
「……イレネスと言うのだな」
柔らかな声だったが、どこか心の奥に触れるような響きがあった。私は深く頭を下げる。
「はい、殿下」
彼はしばらく私を観察するように見つめた。嫌悪や警戒はない。ただ、その瞳の奥で何かを計るような光が揺れていた。
「君に会うのは初めてだが……一つ謝らねばならない」
「お、お詫び……でしょうか」
「父上が君を“白羽の指名者”として王宮に迎えたとき、私は賛成できなかった。血筋も不明な者に国の未来を託すなど、危険だとさえ思った。……だが私の目は曇っていたようだ」
胸が熱くなる。王太子にそこまで正直に言われるなど、人生で考えたこともなかった。
「今日、君が弟を救ったと聞いた。命の恩人だ。……礼を言う」
レオンは軽く頭を下げた。
王太子が平民の少女に頭を下げる——それだけで、宮廷の常識が崩れる音がした気がした。
「とんでもありません……あれは、その……ただ、手が勝手に……」
「謙遜はいらない。奇跡は理由なく起こるものではない。君が選ばれた意味を、私も知ろうと思う」
王族の瞳は嘘をつけない。
その眼差しはまっすぐで、温かく、しかし鋭く真実を求めていた。
(この人は……私を本当に“見よう”としている)
レオンは話題を変えるように軽く息を吐いた。
「弟——ダニエルが目を覚ました。君を呼んでいる」
つい胸が痛む。
彼を癒した瞬間の光景はまだ鮮明に記憶に残っている。あのとき私の中に芽生えたものが、彼の命をつないだのだ。
「……参ります」
レオンはうなずいた。
「私は混乱を避けるため同席はしないが……気をつけるといい。宮廷は今、静かに揺れ始めている」
その言葉の意味を理解する前に、扉が再び開かれた。
——宮廷が揺れ始める。
その中心に、私がいる。
その現実が、ずしりと胸に重くのしかかった。
***
ダニエル殿下の療養室は、日差しが柔らかく差し込み、清潔な白布がふわりと揺れていた。魔力の乱れを吸収する水晶が並べられ、淡い光を放っている。
ベッドの上で彼は上半身を起こしていた。
まだ傷は完全には塞がっていないはずなのに、驚くほど表情に力が戻っていた。
「……イレネス嬢」
彼の声はかすれていたが、確かに微笑を含んでいた。
「殿下……ご無事で、本当によかったです」
胸の奥がじんと熱くなる。
死に瀕していた青年が、こうして目の前で息をしている——それだけで涙が溢れそうになった。
ダニエルは弱々しく笑った。
「君が救ってくれたと聞いた。私は……命の恩人に、まず礼を言わねばならないな」
「そ、そんな……私はただ……!」
「いや。君でなければ、私はもうこの世にいなかった」
その一言が、心の奥底を揺らした。
癒しの光を生んだ手のひらがじわりと温まる気がした。
「それに……君が泣きそうな顔で私の名前を呼んだのを、ぼんやりと覚えている」
「っ……!?」
「不思議だな。苦しいはずなのに、その声はとても優しく感じた」
まっすぐに向けられる感謝と信頼。
こんなふうに誰かに見つめられたことがあっただろうか。
けれど、同時に胸の奥で冷たい不安がざわめいた。
(これが……宮廷を揺らす理由?)
第二王子と私の関係。
第一王子までもが私に目を向け始めたこと。
そして、ロザリアの嫉妬と焦り。
それらすべてが、今この瞬間、静かに結びついてしまった。
「イレネス嬢」
ダニエルは、まるで祈るように私の手を取り、そっと重ねた。
「私は……君に会えて本当によかった」
その言葉が室内の空気を震わせた。
その直後——
扉の外から複数の気配が近づく。
鋭い魔力、重い足音。
ひとつではない。五、六……いや、それ以上。
(……来た)
宮廷の勢力が動き始めた。
第二王子を救った“平民の聖女候補”。
王家の未来を左右する存在。
その価値を奪い合うように、各派閥の者たちが押し寄せてきていた。
ダニエルは私の手を握ったまま、目を細めて言う。
「……怖いか?」
私は小さく首を振った。
「いえ。……でも、覚悟は必要だと思いました」
彼は安堵したように息をつき、微かに笑う。
「ならば、私も君の味方になろう」
その言葉が胸に深く刻まれた瞬間——
扉が大きく開かれ、宮廷のざわめきが雪崩れ込んだ。




