第9話『記録の境界 ―失われた日―』
白い光が満ちていた。
空も地も存在せず、ただ“記録”だけが漂う世界。
ミラは宙に浮かびながら、自分の左手を見つめた。
そこにあったはずの温もり――リードの手が、もう感じられなかった。
『ミラ……聞こえるか?』
声が、遠くから響く。
その声に導かれるように、ミラは歩き出した。
足元に広がるのは、無数の記録の断片。
それは“誰かの人生”“罪”“祈り”“絶望”だった。
一つの記録に触れた瞬間、映像が弾けた。
――そこは、かつての研究所。
白衣を着た人間のリードが、震える手で機械を操作している。
「この世界は壊れた。だから、せめて“魂の記録”を残したい……!」
後ろで、少女が泣きながら叫ぶ。
「もうやめて! それは命を閉じ込めるだけ!」
リードは振り返り、絶望の中で目を閉じた。
「……彼女の記憶だけでも、消したくなかった」
その瞬間、装置が暴走した。
光が研究所を包み、リードと少女――“ミラ”が、記録の中へと取り込まれていく。
映像が消えた。
ミラは震えながら呟く。
「……私……は……」
『そう。あなたは“彼女の記録”。』
もう一人のミラが、背後に立っていた。
その瞳には哀しみと慈愛が混じっている。
『リードは、あなたを救おうとして罪を犯した。
けれどあなたは、彼の“赦し”そのものだったのよ。』
「赦し……?」
『彼は罰を受けるために、ゴブリンという姿で蘇った。
あなたはその罰を見届ける“観察者”として創られた。』
ミラの頬を涙が伝う。
「……それでも、彼を赦したい」
『それがあなたの選択なら、記録を開きなさい。
すべてを終わらせ、すべてを残す。』
ミラは頷き、左目を閉じた。
次に開いたとき――彼女の瞳は、光と影を映す鏡そのものとなっていた。
「……リード」
その名を呼ぶと、光の中に彼の姿が現れた。
傷だらけのゴブリンの姿。だが、その瞳だけは人間のままだった。
「お前は……」
「私はあなたの記録。そして、あなたの赦し」
ミラが手を伸ばす。
リードもまた、ためらいながらその手を取った。
二人の指が触れた瞬間、世界が音を立てて崩れ始めた。
空が裂け、無数の記録が光の粒となって舞い上がる。
リードは静かに目を閉じた。
「ありがとう……ミラ」
「いいえ、ありがとう。あなたが、私を見つけてくれたから」
光が二人を包み、全てが白に染まった。
――そして、朝が来た。
リードは、焼けた大地の上で目を覚ました。
風が吹き、灰の中に、ひとひらの白い羽が舞い落ちる。
その羽が触れた瞬間、彼は微かに微笑んだ。
「……記録の果てで、また会おう」
空の向こうで、ミラの声が優しく囁いた。




