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第9話 君の声が聞こえないふりをした

それは、“見えていたのに、見ないふりをしたもの”に手を伸ばした瞬間の話。


翌朝、僕は早くから明晴大学のサークル棟にいた。

ライブの準備で軽音サークルのメンバーがぞろぞろと集まってくる中、僕はギターの弦を一本ずつ張り替えながら、黙々と指先を動かしていた。


けれど、頭の中はずっと昨日のことを引きずっていた。


 


陽葵の耳のこと。

彼女が言った「もうホルンを吹けないかもしれない」という言葉。

そして、自分の声がちゃんと届いていたかどうかという不安。


 


「おーい、八坂ー!」


 


不意に肩を叩かれて振り返ると、そこには男友達の藤瀬遼がいた。


「今日のライブ、お前の出番はトリなんだから、あんま気を張りすぎんなよ」


「……わかってる」


「いやー、それにしても、また女子たちが騒いでるぞ。“西園寺くんが出るなら行く!”って」


「……それ、褒められてる?」


「褒めてるに決まってんだろ。俺もモテたい人生だったわ」


 遼


遼は明るく笑ってそう言った。

彼のような存在が、この大学生活の中で、僕を“普通”に戻してくれる瞬間がある。


でも今日は、そんな遼の笑顔も、どこか霞んで見えた。


 


ふと、部屋の隅に目をやると——


そこには、倉本凛音がいた。


リュックを背負ったまま、立ち尽くしている。

目が合った瞬間、彼女は軽く手を振ってきた。

その動作は、昨日と同じ。でも、何かが違っていた。


 


「……昨日、電話したの。出なかったね」


「ごめん。……ちょっと手が離せなかった」


 


正確には、出なかったわけじゃない。“出られなかった”んだ。


陽葵の目の前で、あのタイミングで、彼女の名前がスマホに表示されてしまったこと。

あれが何かを変えてしまった気がして、僕は未だに動揺していた。


 


「ううん、大丈夫。きっと……忙しかったんだろうなって思ってたから」


 


倉本は笑った。けれど、その目の奥に、一瞬だけ“ノイズ”のような揺らぎが見えた。


 


「今日も、君のライブ……観に行くね。あの場所、いつもの場所で」


「……ありがとう」


 


そう言って、彼女は部屋を出ていった。


僕はギターの弦を押さえる指に、少しだけ力を込めた。


 


“音楽”は、いつも届くとは限らない。

ましてや“心の声”なんて、もっと不確かだ。


誰かに何かを伝えようとするたびに、僕はまた、誰かの声を聞こえないふりをしているのかもしれない——


* * *


ライブ本番、ステージのライトが僕を照らす。

いつものようにギターを肩に掛け、マイクの前に立つ。

けれど、今日の空気は少しだけ重たかった。


この会場に、陽葵は来ていない。

それは当然のことだ。音が聴こえない中で、ライブに来られるはずがない。


けれど、あの子はこう言った。


「音が聴こえなくても、君の歌が好き」


 


あの言葉を信じて、僕は歌う。


 


——今日というこの一日が

——明日につながる君の願いなら

——どうかこの音が

——届きますように


 


静寂を割るように、ギターの音が響いた。

音の一つ一つが、僕の感情を写すように鳴り続けた。


その中で、ふと目が合った。


——倉本凛音。


観客の中にいた彼女は、じっとこちらを見ていた。

いつもはライブのとき、彼女は軽く手を振ってくる。

けれど今日の彼女は、何もせず、ただ黙って見ていた。


 


僕の音は、誰に届いているんだろう。


陽葵に?

凛音に?

それとも、どちらにも届かないまま、消えていく音なのか?


 


ラストの一小節を弾き終え、静寂が訪れる。


そして、拍手が降ってきた。

歓声が飛ぶ。けれどその中に、僕の心を揺らす音はなかった。


 


ステージを降りて、楽器を片づけていると、背後から声がした。


 


「やっぱり、君の音楽はずるいよ」


 


振り返ると、そこにいたのは——倉本凛音だった。


「……どういう意味?」


「“音に込める”って、君は簡単に言うけどさ。

 私は、君の声に何回も救われたよ。でもそれって、

 私だけじゃなくて……きっと、他の誰かにも、同じように届いてるんでしょ?」


 


彼女の目は、まっすぐだった。


そして、そのまっすぐさが、僕の心に鈍く突き刺さる。


 


「……陽葵さん。耳のこと、知ってる」


 


心臓が、一瞬止まったような錯覚に襲われた。


 


「……あの人が、壊れていくのを、黙って見てるのがつらいんだよ。

 でも、もっとつらいのは……それを見てる君が、私に何も言ってくれないこと」


 


彼女の声が震えた。

僕は何も言えなかった。


 


「ねえ……私、君の歌が好きだったよ。けど、

 君の“優しさ”は、私にとっては、残酷だったかもしれない」


 


その言葉を残して、倉本凛音は背を向けた。


 


——音は、ただ響くだけじゃない。

 時に人を救い、時に誰かを傷つける。


 


そのことを、僕はこの日、ようやく理解した。

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