第8話 陽のあたる場所、陰の落ちる音
春が夏へと歩き出す季節。
新緑のキャンパスには、まぶしい光と長い影が落ちていた。
僕はいつものように、自販機の前で缶コーヒーを片手にしていた。
この時間、教室にもサークル棟にも誰もいない。静かで、涼しくて、僕の好きな“音の少ない時間”。
でも今日は、その静寂を破る音があった。
「……やっぱり、ここにいたんだ」
振り返らなくてもわかった。声の主は倉本凛音。
「君って、本当に毎回同じ場所で休んでるよね。まるで、“指定席”って感じ」
「おはよう。……休み時間に探しにくるなんて、暇なのか?」
「暇じゃないよ。……会いたかっただけ」
さらりとそう言って笑う彼女に、僕は少しだけ息をのんだ。
彼女の言葉は、いつも柔らかい。そのくせ、不意に心の隙間に刺さってくる。
「今日のライブ、配信あるんでしょ? 観るよ。楽しみにしてるんだから」
倉本凛音は、僕のネット配信の常連視聴者のひとりだ。
……ただし、“彼女がそのことを僕に伝えたのは、つい最近”の話。
つまり、以前から知っていたのに、それを隠していたということになる。
理由は聞かなかった。けれど、なんとなくわかっていた。
彼女は、きっと“観るだけの距離”を保ちたかったのだろう。
「今日、何歌うの?」
「まだ決めてない。気分で選ぶつもり」
「……私の好きな曲、歌ってくれたら、嬉しいな」
そう言って、彼女はリュックから文庫本を取り出す。
表紙は桜色。村上春樹の短編集だった。
「本、好きなんだな」
「うん。音楽と同じで、ページをめくるたびに“静かな感情”が生まれるから」
そう言った彼女の表情は、どこか陽葵に似ていた。
感情を見せるのが下手で、笑顔が上手で、孤独に慣れている。
そのときだった。ポケットのスマホが震える。
着信ではない。LINEの通知。差出人は——
《陽葵》
ごめん、……耳、また悪化したかも
たった一行。
だけど、その一文が、胸を強く締めつけた。
「……どうかした?」
僕の顔色に気づいた倉本が、そっと声をかける。
「……ちょっと、用事ができた。ごめん、また後で」
「うん。気をつけてね」
倉本凛音は、それ以上何も聞かなかった。ただ静かに笑って、手を振った。
けれど僕は気づいていた。
彼女の手の震えが、ほんのわずかに見えたことを。
そしてその笑顔が、わずかに強がっていたことを。
* * *
駅までの道を、僕は全力で走った。
陽葵の部屋は大学から離れた住宅地にある。
大学のバスを乗り継げば小一時間ほどの距離。
だけど今日は、そんな時間さえ惜しかった。
心臓の鼓動が、音楽じゃないリズムを打っている。
それが、どれだけ“陽葵”という存在を自分が気にしているかを、嫌でも教えてくる。
彼女の部屋の前に着いたとき、鍵は開いていた。
「陽葵、入るぞ」
返事はない。
だけど中に入ると、リビングの奥から小さな物音がした。
「……ごめん、来てもらって」
ソファの隅に、陽葵は座っていた。
毛布を膝にかけて、目だけがこちらを見つめている。
「耳……?」
「……右側が、また、少し……聞こえにくくなった」
「病院は? 行ったのか?」
「今朝、行ってきた。ストレス性の突発性難聴……たぶん、再発。
鼓膜には異常がないけど、“神経性”だから、どうしようもないって」
僕は隣に座って、彼女の視線と向き合った。
「痛みとかは?」
「……ない。けど、怖い」
「……音が?」
「うん。今も、君の声が、ちょっと遠くにある感じ。
まるで、私だけが水の中にいるみたいに。……ねえ、こわいよ」
その言葉が、どこかで聞いたフレーズと重なった。
あの日、初めて彼女が泣いた夜。
「何も聴こえなくなるかもしれない」って、彼女が震えながら言ったあの瞬間。
僕は、あのときと同じ言葉を選ぶ。
「俺の音が、ちゃんと届くようにする。……何があっても」
陽葵は、声を出さずに笑った。
その笑顔は、どこか脆くて、すぐに崩れてしまいそうだった。
「ねえ……奏」
「ん?」
「……もう、ホルン吹けないかもしれない」
その一言は、彼女がどれだけそれを恐れていたかを如実に物語っていた。
“自分の存在価値”とさえ信じてきた音を、失うかもしれないという絶望。
僕は、言葉を慎重に選ぶ。
「それでも、お前が“音”じゃないもので、できることはたくさんある。
……例えば、こうして笑うことも、泣くことも。カレーを作ることだって、そう」
陽葵は眉をひそめる。
「カレー?」
「昨日のカレー、味がちゃんとしたって言っただろ?」
「……うん。言った」
「つまり、お前は“感じること”ができてる。音がなくても、世界と繋がってる。
それって、音楽に似てると思わないか?」
沈黙が降りたあと、彼女はそっと口を開く。
「……ありがとう。君って、やっぱり変わってる」
「それ、褒めてる?」
「たぶん、ちょっとだけ」
そのとき、スマホが震えた。着信は——“倉本凛音”。
でも、僕は取らなかった。今この瞬間だけは、目の前の声にならない声に向き合いたかった。