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第7話 彼女は今日も、嘘をつく

大学の構内には、春の終わりを告げる風が吹いていた。


四月の終わり。授業が本格的に始まり、キャンパスの空気はどこか慌ただしい。

それでも、僕の歩調はいつも通りだった。どこか冷めていて、誰とも肩を並べず、ただ、必要な場所へ向かうだけ。


 


「八坂くん!」


 


名前を呼ばれて振り返ると、そこにいたのは——


 


「おはよう、倉本さん」


「おはよう! 今日、レポート出す日だよね? 間に合った?」


「昨夜、提出済み。寝落ちする前にね」


 


倉本凛音。同じ学部に所属する、どこか天然で人懐っこい女の子。

出席番号も近くて、講義で隣の席になることが多いせいか、最近はよく話すようになった。 


「すごいなあ、八坂くん。ライブ配信してるのにレポートまで完璧だなんて、時間の使い方、どうなってるの?」


「別に完璧じゃない。必要な分だけ、やってるだけ」


「ふふ、それでも十分かっこいいよ」


 


さらりとそう言って、彼女は笑う。


陽葵とは対照的に、彼女はどこまでも軽やかだった。

悩みなんてなさそうで、いつも楽しげで、友達も多い。


でも、そんな彼女の瞳に、ふと影が差す瞬間があることに——僕はまだ気づいていなかった。


 


***


 


夕方、僕が帰宅すると、陽葵はリビングのソファにうずくまっていた。


ホルンは、すでにケースに戻されていて、代わりに膝の上にはスケッチブックが広がっていた。


 


「何してるんだ?」


「……音が聴こえなくなったときのこと、思い出してた」


 


彼女は、昨日よりも少し静かな声でそう言った。


 


「耳……どう?」


「右は、全然。左は、マシになってきたけど……それでも完全には戻ってない」


「病院は?」


「行ってる。でも“ストレス性の一過性の可能性が高い”って。時間がかかるかもって言われた」


 


陽葵は、そこまで言って、ふっと笑った。


「“ストレス性”って、便利な言葉だよね。全部そのせいにできる。……でも、ほんとは、もっと別の原因があるのかもしれないのに」


「たとえば?」


 


彼女は黙った。


その沈黙が、言葉よりも多くを語っているように思えた。


 


「……嘘、ついてる?」


 


僕の問いに、陽葵はかすかに目を見開いた。


だけど、すぐに視線を伏せる。


 


「……ううん。そんなことない」


 


その“そんなことない”が、きれいな嘘だと僕は気づいていた。


でも、それを責めるつもりはなかった。


彼女がまだ“隠していたい”と思っているなら、今はそのままでいい。


それを“信じる”という形で包み込むしか、今の僕にはできない。


 


「じゃあ、そろそろ晩飯作るけど、何か食べたいものある?」


「……カレー、かな。なんか、子どもっぽいけど」


「子どもはチーズのっけて喜ぶ」


「チーズ、ある?」


「あるよ」


 


笑い合うその時間が、彼女の心をほんの少しでも軽くしてくれるのなら。


それでいい、と思った。


* * *


湯気の立つ鍋の前で、僕は黙々とじゃがいもを煮ていた。


陽葵はソファに座ったまま、足を抱えてぼんやりしている。テレビもつけず、スマホも見ず、ただ空白の時間に沈んでいるようだった。


そんな彼女を見ながら、僕は思っていた。


「誰かのために料理をする」という行為が、思ったよりずっと自分の中でしっくりきていることに。


 


「……なんか、こういうの、いいね」


 


陽葵が呟いた。


「こういうの?」


「普通に、ただ……“日常”って感じ。ホルンも吹いて、カレー食べて。ちょっとだけ、大学生って感じする」


 


その言葉が妙に引っかかった。


まるで、陽葵はこれまで“大学生としての時間”をまともに過ごしていなかったかのように聞こえたから。


 


「……陽葵。大学では、友達いないのか?」


 


彼女は驚いたように僕の顔を見たあと、ほんの少しだけ首を振った。


 


「いないわけじゃない。でも、表面的な付き合いばかり。みんな、吹奏楽の“顔”でしか私を見てない。……怖いって言われるし、関わりづらいって陰口も聞こえるし」


「それ、全部聞こえてたのか」


「演奏は、人の声と同じくらい聴いてきたからね。耳は、ずっと敏感だった。……皮肉だけど」


 


その言葉に、思わず手を止めてしまった。


耳が“敏感”だったという彼女が、今、“耳”を失いつつある。

それは、彼女にとって——想像以上に過酷なことなのかもしれない。


 


「……高校のときさ」


唐突に、陽葵が言った。


「私、ほんとは、吹奏楽やめたかったんだ」


 


僕は無言で、次の言葉を待つ。


 


「でも、うち、母がすごく厳しくて。“ホルンをやるのが、あんたの役目”って。小学校のときからずっとそうだった。“期待してる”って言われるの、嫌いだった」


「……じゃあ、大学でも続けたのは」


「逃げられなかったの。妹も同じホルンを始めて、同じ高校に入って。母は、私のことを“成功例”として扱ってた」


「まるで、教材だな」


「そう。だから、音が出なくなって、耳もおかしくなって、家にいられなくなった。役目を果たせない私は、もう“用無し”だった」


 


声は淡々としていたけれど、それは“諦め”のトーンだった。


怒りでも悲しみでもない。もっと冷たくて、深い感情。


 


「……でも、今は、自由になれたのか?」


 


僕の問いに、陽葵は一瞬だけ笑った。けれど、その笑みはどこかぎこちない。


 


「ううん。自由じゃない。耳が聴こえない今の方が、もっと縛られてる。……だって、今度は自分自身に失望してるから」


 


カレーの匂いが漂うなか、部屋の空気は少しずつ沈んでいく。


だけど、それでも僕はこう言った。


 


「それでも、俺はお前のホルンを、また聴きたいと思ったよ」


「……変わってるね、奏」


「俺の耳は、まともじゃないからな。変な音の方が、よく聴こえる」


「ふふっ、なにそれ。意味わかんないし」


「でも、ちょっと笑ったろ」


「……うん。ちょっとだけ」


 


テーブルに並んだカレーは、そんなに美しくはなかった。


でも、ひと口食べた陽葵は、目を細めて、ポツリとつぶやいた。


 


「……ちゃんと、味する」


 


まるで、それが奇跡でもあるかのように。

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