第6話 音のない朝、重たい現実
カーテン越しの光で目を覚ました朝。
僕の部屋には、ひとつ多い寝息の音があった。
陽葵は、僕のベッドで丸くなって眠っている。
顔は枕にうずめられていて、どんな表情をしているのかはわからない。
けれど、たぶん——少しは、楽に眠れているはずだ。
昨日、あの雨の前触れのような空気の中、彼女が見せた“あの涙”は、今も記憶の中で濡れたままだった。
起こさないよう、僕は静かにキッチンで朝食の支度を始めた。
冷蔵庫の中にあった卵と、食パン、インスタントのスープ。
音を立てないように火加減を気にしていたら、背後から、かすれた声がした。
「……おはよう」
振り返ると、陽葵が、寝ぐせを気にしながら起き上がっていた。
「よく眠れたか?」
「……うん。たぶん、ひさしぶりに」
そう言って、彼女はスリッパをつっかけながらキッチンへとやってくる。
「朝ごはん、作ってくれてるの? 奏、料理できるんだ」
「料理ってほどでもない。腹が減るから作るだけ」
「ふふ、淡々としてて安心する」
たしかに、そう言われることは多い。
でも、“安心する”と言われたのは、意外だった。
僕はスープの器をテーブルに置きながら聞いた。
「今日……大学、どうする?」
彼女は少しだけ考える素振りをしてから、首を横に振った。
「……行かない。今はちょっと、まだ無理かも」
「無理しなくていいよ」
「うん……ありがとう」
ふたりで食べる朝食は、静かだった。
けれどその静けさは、昨日まで彼女が感じていた“沈黙”とは違った。
穏やかで、少し温かい。
そんな空気の中、陽葵がぽつりと話し始めた。
「私ね、家では“音楽の道に進め”って言われてたんだ。昔からずっと」
「……」
「でも、褒められてたのは“音を出してる自分”だけだった。成績が落ちても、情緒が不安定でも……“演奏がうまいならそれでいい”って」
彼女の目は、どこか遠くを見ていた。
その視線の先にあるのは、きっと彼女の過去だ。
「妹はね、すごく優等生で、要領も良くて、母親の言うことはちゃんと聞いてて。……私はいつも、その“比較対象”だった」
「……家、辛いんだな」
彼女は、ちいさく頷いた。
そして、何かを決意したように、言葉を続けた。
「私、もう家に帰りたくない。あの空気に戻ったら、きっと、また壊れる」
「だったら、ここにいろ」
「え……」
「とりあえず一週間でも、様子見ながら。俺んとこなら、ホルンもうるさくないし、誰もお前を黙らせようとしない」
陽葵は、はっと息を飲んだ。
そして、その目にすこしだけ光が戻った気がした。
「……ほんとにいいの? 迷惑じゃない?」
「迷惑なら、最初から呼ばない」
「……ありがとう」
その声は、昨日よりほんの少しだけ、強かった。
***
午後、僕はサークルの予定があったため、いったん大学へ向かった。
陽葵は「掃除でもして待ってる」と笑ってくれたが、やっぱりどこかで気にしているようにも見えた。
サークルの部室では、いつものように騒がしい連中が楽器を構えていたが、どこか今日はその音も遠く感じた。
ドラムの藤瀬が、僕に肩をポンとぶつけてきた。
「よお、なんか雰囲気変わったな、奏。彼女でもできたか?」
「……まさか」
「嘘つけ。その顔は“何かある”顔だぞ」
何かある。
たしかにそうかもしれない。
ただ、それが“恋愛”なのか、“共犯関係”のようなものなのか……僕にも、まだわからない。
でも——少なくとも、今の陽葵には、僕が必要だと思っている。
そして、それはきっと、僕の方も同じだった。
夕方、部室を出たときには、外はすっかり涼しくなっていた。
帰り道、スーパーで夕飯の材料を買いながら、僕はふと考えていた。
あの陽葵が、僕の家にいる。
それは、たった数日前には想像もしていなかった状況だ。
それなのに、不思議と“違和感”はなかった。
まるで、そうなる運命だったような——そんな感覚すら、ある。
* * *
部屋に戻ると、淡い夕日がカーテン越しに差し込んでいて、キッチンにはかすかな香りが漂っていた。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
エプロンをつけた陽葵が、振り返って笑った。
その手には、炒め物のフライパン。
「料理、ちょっとだけ挑戦してみた。冷蔵庫の中にあったもので」
「まじか。料理するタイプに見えなかった」
「私も自分でびっくりしてる」
テーブルには、野菜炒めと味噌汁とご飯。質素だけど、どこかあたたかい食卓だった。
「食べよっか」
「うん」
ふたりで箸を動かしながら、他愛のない話をした。
高校の部活の思い出、大学の授業、昨日のライブ配信のコメント欄にいた“やばい視聴者”の話。
笑いが自然と混じった食事の時間は、どこか夢のようでもあった。
「……ねえ、奏」
「ん?」
「ホルン、吹いてもいい?」
箸を止める僕に、陽葵は少しだけはにかんだように笑う。
「ここなら、大丈夫でしょ? 音、そんなに大きく出さないし。やっぱり、ちょっと吹きたくなったの」
彼女はそう言うと、持ってきていた黒いケースをそっと開いた。
丁寧に組み立てるその指先は、震えていなかった。
「……じゃあ、一曲だけ」
「うん」
僕は床に座り、彼女の方を向いて待つ。
陽葵は深く息を吸い込み、目を閉じて——ホルンのベルを少し下に向け、そっと吹き始めた。
最初の一音が、部屋の空気を震わせた。
——その音は、ほんの少しだけ歪んでいた。
でも、そのわずかな“揺らぎ”が、逆にとても人間らしく、切実で、温かかった。
音は、音楽は、彼女をまだ見捨てていなかった。
彼女は、最後の音を長く伸ばして吹き切ったあと、ゆっくりと口を離す。
そして、僕の方を見た。
「……どうだった?」
僕は言葉に詰まりかけたけど、すぐに答えた。
「きれいだった」
「……ほんとに?」
「本当に。俺、またギターでお前とセッションしてみたいって思った」
陽葵の目が見開かれたあと、じんわりと潤んでいく。
彼女は笑った。
泣きそうで、でも嬉しそうで——そんな複雑な表情の、でも確かな笑顔だった。
「……また、練習してみようかな。少しずつでも、やれるかも」
「焦らなくていい。時間はたくさんある」
そのとき、彼女の表情に、ほんの一瞬だけ影が差した。
「……でも、時間があるのは、私だけじゃないから」
「ん?」
「……なんでもない。明日も、少しだけ練習してみようかな」
その言葉の裏に、何か含まれていたことに気づくのは——もう少し先の話だ。
その夜、彼女は布団の中で、ずっとホルンのマウスピースを指でなぞっていた。
何かを思い出すように、何かを手放すように。