最終話 君の耳に、僕の音が届くなら
春が、やってきた。
冬のあいだずっと冷たかった空気が、やわらかく、ゆるんでいく。街の景色は少しずつ色づきはじめ、俺たちの大学生活も、三年目に突入しようとしていた。
窓を開けると、ひんやりした風がカーテンを揺らす。
目覚まし代わりのスマホには、陽葵からのメッセージが届いていた。
「今日、昼休みに中庭のベンチ、空いてるかな? 少し話したいことがあるんだ」
それだけの短い文。
でも、今の彼女が自分から言葉を送ってくれることが、何よりも大きな変化だった。
あの夜から、俺たちは少しずつ、「日常」という名前の季節を取り戻していた。
*
中庭のベンチは、木漏れ日が差し込む穏やかな場所だった。
俺が到着すると、すでに陽葵はベンチに座っていて、春物のカーディガンを羽織りながら小さく手を振った。
「ごめん、待った?」
「いや。ちょうど来たとこ」
彼女の横に座ると、彼女はゆっくりと髪を耳にかけた。その仕草だけで、心臓が少し跳ねる。
陽葵は、少し間をおいてから、話し始めた。
「私、来週からカウンセリングを再開するの」
「……そうなんだ」
「病院の先生とも話して、自分から言葉を出せるようになった今なら、ちゃんと向き合えるかもって。難聴のことも、音楽のことも、自分自身のことも」
「……うん、いいことだと思う」
彼女は笑って、けれどどこか遠くを見ていた。
「それでね……音楽も、少しだけ、またやってみようと思う」
「……え?」
「もちろん、今までみたいにはできないかもしれない。でも、ホルンじゃなくてもいいかなって。ピアノとか、他の何かで――私なりに、『音』と向き合ってみたい」
「……それは、陽葵にしかできない音になるよ」
言葉を飲み込んで、僕は少しだけ彼女の肩に寄りかかった。
陽葵は、そっと僕の手を握った。
「ねえ、奏」
「ん?」
「もし……わたしが、また音を失っても。それでも、そばにいてくれる?」
「もちろん」
それはもう、誓いみたいなものだった。
「俺の音は、陽葵の耳が聞こえなくなっても、ずっと届き続ける。そういう音を、これからも奏でるよ」
陽葵は目を閉じ、頷いた。
「じゃあ、今日からまた……よろしくね」
「こちらこそ」
ふたりの間に、言葉にならないものがそっと流れていく。
それはたぶん、恋というよりも、絆だった。
そして、それが僕たちの日常の始まりでもあった。
*
春の終わり、風があたたかく吹いた。
駅前のロータリーで、俺はギターケースを背負いながら、ひとりで立っていた。
今日、この町で開かれる小さな野外ライブ。主催者から誘われていたのは、もう少し前のことだった。
でも今日は、少し特別だった。
――君のために、歌いたい曲があるんだ。
そう、彼女に伝えたのは昨日のこと。
客席のすみに、陽葵の姿を見つける。淡いベージュのワンピース。風に髪がなびいて、彼女はじっとこちらを見ていた。
耳には、補聴器。けれど表情は、とても穏やかだった。
マイクの前に立ち、深く息を吸う。
「こんにちは、奏です。……今日は、一曲だけ歌わせてください」
静まり返った広場に、アコースティックギターの音が、優しく響く。
一音ずつ、彼女のことを想いながら弾いた。
苦しみの中でもがいていた彼女。
救えなかった過去。
触れられなかった言葉たち。
でも今は――
「君の耳に、僕の音が届くなら」
それは、俺が初めて書いた、彼女だけのための曲だった。
歌いながら、俺は視線を上げる。
陽葵が――泣いていた。
静かに、でも確かに。
補聴器の向こう、彼女の心に何かが届いたなら、それだけでいい。
俺の音は、君の涙のためにある。
最後のコードを弾き終えると、会場は小さな拍手に包まれた。
でも、俺にとって一番大事なのは、あの涙だけだった。
*
演奏が終わり、観客がまばらに去っていくなか、彼女がゆっくりと俺に近づいてきた。
「……聴こえたよ」
小さな声だった。
「全部、ちゃんと。あなたの音、届いたよ」
俺は何も言えず、ただ彼女を見つめた。
「ありがとう、奏。……わたし、これからもあなたの隣にいたい」
「……俺もだよ。たとえ何があっても、俺はずっと、君のそばで音を奏でる」
その言葉が嘘じゃないことを、俺たちは知っていた。
だからもう、約束なんていらなかった。
そっと手を繋ぐと、陽葵は少し笑った。
静かに、柔らかく。
まるで、春の風みたいに。




