表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
56/56

最終話 君の耳に、僕の音が届くなら

 春が、やってきた。


 冬のあいだずっと冷たかった空気が、やわらかく、ゆるんでいく。街の景色は少しずつ色づきはじめ、俺たちの大学生活も、三年目に突入しようとしていた。


 窓を開けると、ひんやりした風がカーテンを揺らす。


 目覚まし代わりのスマホには、陽葵からのメッセージが届いていた。


「今日、昼休みに中庭のベンチ、空いてるかな? 少し話したいことがあるんだ」


 それだけの短い文。


 でも、今の彼女が自分から言葉を送ってくれることが、何よりも大きな変化だった。


 あの夜から、俺たちは少しずつ、「日常」という名前の季節を取り戻していた。







 中庭のベンチは、木漏れ日が差し込む穏やかな場所だった。


 俺が到着すると、すでに陽葵はベンチに座っていて、春物のカーディガンを羽織りながら小さく手を振った。


「ごめん、待った?」


「いや。ちょうど来たとこ」


 彼女の横に座ると、彼女はゆっくりと髪を耳にかけた。その仕草だけで、心臓が少し跳ねる。


 陽葵は、少し間をおいてから、話し始めた。


「私、来週からカウンセリングを再開するの」


「……そうなんだ」


「病院の先生とも話して、自分から言葉を出せるようになった今なら、ちゃんと向き合えるかもって。難聴のことも、音楽のことも、自分自身のことも」


「……うん、いいことだと思う」


 彼女は笑って、けれどどこか遠くを見ていた。


「それでね……音楽も、少しだけ、またやってみようと思う」


「……え?」


「もちろん、今までみたいにはできないかもしれない。でも、ホルンじゃなくてもいいかなって。ピアノとか、他の何かで――私なりに、『音』と向き合ってみたい」


「……それは、陽葵にしかできない音になるよ」


 言葉を飲み込んで、僕は少しだけ彼女の肩に寄りかかった。


 陽葵は、そっと僕の手を握った。


「ねえ、奏」


「ん?」


「もし……わたしが、また音を失っても。それでも、そばにいてくれる?」


「もちろん」


 それはもう、誓いみたいなものだった。


「俺の音は、陽葵の耳が聞こえなくなっても、ずっと届き続ける。そういう音を、これからも奏でるよ」


 陽葵は目を閉じ、頷いた。


「じゃあ、今日からまた……よろしくね」


「こちらこそ」


 ふたりの間に、言葉にならないものがそっと流れていく。


 それはたぶん、恋というよりも、絆だった。


 そして、それが僕たちの日常の始まりでもあった。







 春の終わり、風があたたかく吹いた。


 駅前のロータリーで、俺はギターケースを背負いながら、ひとりで立っていた。


 今日、この町で開かれる小さな野外ライブ。主催者から誘われていたのは、もう少し前のことだった。


 でも今日は、少し特別だった。


 ――君のために、歌いたい曲があるんだ。


 そう、彼女に伝えたのは昨日のこと。


 客席のすみに、陽葵の姿を見つける。淡いベージュのワンピース。風に髪がなびいて、彼女はじっとこちらを見ていた。

 耳には、補聴器。けれど表情は、とても穏やかだった。


 マイクの前に立ち、深く息を吸う。


「こんにちは、奏です。……今日は、一曲だけ歌わせてください」


 静まり返った広場に、アコースティックギターの音が、優しく響く。


 一音ずつ、彼女のことを想いながら弾いた。


 苦しみの中でもがいていた彼女。

 救えなかった過去。

 触れられなかった言葉たち。


 でも今は――


 「君の耳に、僕の音が届くなら」


 それは、俺が初めて書いた、彼女だけのための曲だった。


 歌いながら、俺は視線を上げる。

 陽葵が――泣いていた。


 静かに、でも確かに。


 補聴器の向こう、彼女の心に何かが届いたなら、それだけでいい。

 俺の音は、君の涙のためにある。


 最後のコードを弾き終えると、会場は小さな拍手に包まれた。

 でも、俺にとって一番大事なのは、あの涙だけだった。







 演奏が終わり、観客がまばらに去っていくなか、彼女がゆっくりと俺に近づいてきた。


「……聴こえたよ」


 小さな声だった。


「全部、ちゃんと。あなたの音、届いたよ」


 俺は何も言えず、ただ彼女を見つめた。


「ありがとう、奏。……わたし、これからもあなたの隣にいたい」


「……俺もだよ。たとえ何があっても、俺はずっと、君のそばで音を奏でる」


 その言葉が嘘じゃないことを、俺たちは知っていた。


 だからもう、約束なんていらなかった。


 そっと手を繋ぐと、陽葵は少し笑った。


 静かに、柔らかく。


 まるで、春の風みたいに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ