第55話 終演の、その先へ
ライブの翌日、目覚めたとき、部屋の中は妙に静かだった。
昨夜の興奮がまだ体の奥に残っている。けれど、それと同時に、どこかすっきりとした感覚もあった。
昨夜のライブは、俺にとって何かを一区切りさせるものであり、同時に何かの始まりだった。
陽葵に、音が届いた。
それだけで、俺の中の何かが報われたような気がした。
キッチンで湯を沸かしながら、スマホの通知を見ると、昨夜の配信アーカイブには信じられないほどのコメントがついていた。
「……すげぇな、これ」
俺の歌が誰かの心に届いていたのなら、それはやっぱり――悪くない。
でも、それ以上に。
陽葵の「聴こえた」という一言が、何よりも重かった。
*
昼過ぎ。軽音サークルのメンバーと、ライブの打ち上げを兼ねた昼食会を開いた。
みんな笑ってた。バカみたいな話で盛り上がって、互いの演奏を褒め合って、先輩たちは「卒業までにもう一回やろう」って言っていた。
それが、何だかやけに切なかった。
終わっていくものと、続いていくもの。
その狭間で、俺はふと、誰かの視線を感じた。
「奏」
振り返ると、そこには佐倉あすかがいた。赤茶のポニーテールに、春めいたワンピース。
彼女は、すっと真顔で俺の前に来て、言った。
「昨日のライブ……やっぱり、陽葵のことを歌ってたんだよね?」
「……うん」
俺は隠さなかった。
彼女はほんの数秒、何かを飲み込むように黙って――それから、柔らかく笑った。
「そっか。そっかあ。うん……よかった。じゃあ、私の気持ちは、ここでおしまい」
「え……」
「だって、もう振り向いてくれないってわかったもん。バカじゃないし。……でも、ちゃんと伝えてよかったよ。ちゃんと、向き合えたから」
あすかはそう言って、俺の胸を軽く叩いた。
「……これからも、歌い続けなよ。私はあんたのファンやめないから」
そう言い残して、彼女は笑顔で、仲間の輪へ戻っていった。
打ち上げの喧騒から少し離れた帰り道。
俺は陽葵の家へ向かっていた。電車を乗り継ぎ、彼女が住む町へ。たった一人で。
あの日、彼女を迎えに行った道を、今度は自分の足で辿っていく。
手には、例のライブの録音が入ったICレコーダーを持っていた。
届けたかったのは、言葉よりも音だった。
彼女の耳に、俺の音が、もう一度届くように。
*
呼び鈴を鳴らすと、ドアを開けたのは陽葵の妹――美桜だった。
「……あ、奏くん……」
美桜は驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑んで言った。
「お姉ちゃん、二階の部屋にいる。もう、だいぶ元気になってきたよ」
俺は黙って頷き、階段を上がった。
ドアをノックする。
「……入っていいか?」
「……どうぞ」
その声は小さく、でも確かに返ってきた。
中に入ると、陽葵はベッドの上に座っていた。イヤホンを耳に差して、何かを聴いていた。
いや、聴こうとしていたのかもしれない。
「昨日のライブの……」
「うん。ネットに上がってたアーカイブ。コメント欄がすごかった」
「……そうか」
俺は彼女の隣に腰を下ろし、ポケットからICレコーダーを取り出して見せた。
「高音質で録ったやつ。もしよかったら、こっちも聴いてくれ」
「……ありがとう」
彼女はイヤホンを取り外し、俺の差し出したイヤホンをそっと耳にあてた。
再生ボタンを押す。
俺の歌声が、空気を震わせる。
彼女は目を閉じ、じっと聴いていた。最初は無表情だった。
でも、サビに入ったとき。
彼女の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「……やっと……やっと、聴こえた」
「……うん」
「奏の音……ずっと、心の奥にあった。忘れたくても忘れられなくて……でも、今のは……ちゃんと届いた」
「俺も、やっと……伝えられた気がする」
俺は彼女の手をそっと握った。
彼女は驚いたように俺を見たけれど、すぐにその手を握り返してきた。
沈黙のなかで、俺は言葉を選んだ。
「……これから先、ずっと音楽が続けられるかどうかはわからない。でも、陽葵の隣で――お前と一緒に歩いていくことだけは、はっきり言える」
彼女は俺の顔を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。
「……わたし、難聴が治るかどうか、わからない。でも、奏の音があるなら……たぶん、どんな未来でも、怖くない」
「だったら、俺と一緒にいよう。全部、背負うよ。お前の苦しみも、未来も」
「……ありがとう」
彼女は、泣きながら笑った。
それは、俺が初めて見る――心からの、笑顔だった。




