第53話 始まりのアンサンブル
朝から、空は抜けるような青だった。
六月の終わり。梅雨が明けたかのような、まぶしい日差し。
蝉の声にはまだ早く、代わりに鳥のさえずりが、街のどこかで響いていた。
僕はギターケースを背負い、私立明晴大学の大ホールへと足を向ける。
合同発表会の本番当日。会場にはすでに、いくつもの団体が集まりはじめていた。
廊下には、吹奏楽部の金属ケースや、演劇部の小道具、照明チームのケーブルが入り乱れている。
「奏くん! おはよう!」
軽音サークルのリーダー・麻央が手を振っていた。
彼女は今日もエネルギッシュで、ピンクのカーディガンの袖をくるくる回している。
「準備、大丈夫そう?」
「……あとは音出しして、リハの確認だけ。ドラムとPAは?」
「凛音ちゃんも菜月ちゃんももう来てる。ほら、向こうで機材並べてる」
廊下の先、凛音と菜月がアンプとキーボードをセッティングしていた。
二人とも笑顔で手を振ってくれる。
……そのとき、後ろから別の足音が近づいた。
「……おはよう」
静かな声。
振り向くと、そこには陽葵がいた。
白いブラウスに、黒のスカート。大学の演奏衣装ではなく、個人的に選んだのだろう。
その手にはホルンのケース。足取りは不安定で、それでもまっすぐだった。
「……来たんだな」
「……うん。来なかったら、多分一生、吹けなくなる気がした」
その言葉に、僕は何も言えなかった。
彼女の顔色はまだ優れない。目の下のクマも、消えていない。
でも、足は前を向いている。震えながらも、自分の意思で、今日ここに来たのだ。
——それが、すべてだ。
「吹奏楽部の方は?」
「……バラバラ。今日のステージは、私と、後輩の何人かだけ。先輩たちは来ない。来れない、っていうか……」
つまり、実質的に半分崩壊している。
それでも陽葵は舞台に立つ。立つことで、音を鳴らすことで、何かを証明しようとしている。
「……陽葵」
「ん?」
「お前が吹く音を、聴きに行く。必ず」
「……ありがとう。じゃあ、奏のライブも、絶対聴く」
それは、誓いのようだった。
音で結ぶ、互いの“約束”。
遠くで放送部のマイクテストが始まり、舞台裏に緊張が走る。
「——明晴大学合同発表会、まもなく開演いたします」
そのアナウンスに、僕たちはゆっくりと歩き出した。
幕が上がる。
照明が、ホール全体を柔らかく包み込む。
前半は各サークルや団体の出し物が続いていた。
演劇部の朗読劇、写真部のスライドショー。クラシックギターの独奏。
どれも完成度は高く、観客の反応も悪くない。
俺は袖で控えながら、それらをぼんやりと見つめていた。
——そして、あいつの番になった。
「続いては、吹奏楽有志メンバーによるアンサンブル演奏です」
会場が少しざわめく。
明晴大学の吹奏楽部といえば、全国大会常連の実力校。
だが、今日は“有志”という形での参加。異例だ。
ステージ中央に、数人の演奏者が現れる。
フルート、クラリネット、トランペット、トロンボーン——
そして、ホルンを持った、彼女。
陽葵だ。
客席に一瞬、静寂が訪れた。
たぶん誰もが知っていたのだ。彼女がずっと表に出てこなかった理由を。
吹奏楽部の内情を、噂レベルで知っていたとしても、その“空白の期間”が意味するものを。
彼女の立つ姿は、すべてに対する答えだった。
演奏者の合図とともに演奏が始まった。
——静かな、木管の入り。
——そこに重なる、金管の深い響き。
——そして、ホルン。
彼女の音が、ホールに溶け込む。
まっすぐで、柔らかくて、どこか哀しくて。
張りつめた何かが、少しずつほどけていくような音色だった。
音楽の力って、たぶん、こういうことなんだ。
声じゃなくて、文字でもなくて。
ただ“音”で、誰かの心に触れる。触れてしまう。
——彼女は、まだ完全には治っていない。
片耳の難聴は進行しているし、家の問題も未解決だ。
それでも、彼女はここに立ち、音を届けている。
それだけで、充分すぎるほどの意味がある。
最後の小節が終わると、客席から割れんばかりの拍手が起こった。
陽葵は深く一礼した。目元が、少し潤んでいるように見えた。
——そして、次は俺の番だった。
軽音サークルとしてのライブパート。
舞台袖でギターのチューニングをしながら、俺は深く息を吐いた。
今日、ここで演奏するのはオリジナルの一曲。
彼女のために書いた、彼女の耳に届くように願った、ただひとつの歌。
俺の音が、届きますように。
ステージに出て、観客席を見渡した。
そこに、陽葵の姿があった。
さっきとは違う服。私服に着替えて、客席の中段に座っていた。
静かに、こちらを見つめていた。
「それでは、次の演奏に移ります。軽音サークル・Radiantによる、オリジナルソング——『君の耳に、僕の音が届くなら』」
俺はマイクに口を寄せて、ギターを鳴らした。
彼女に向けて。
そして、かつての自分に向けて。
——音を、届ける。




