第52話 ホールのリハーサル
十月も終わりに差し掛かると、街の空気が少しずつ冬の輪郭を帯びはじめる。
その朝、いつものようにギターケースを背負って明晴大学に向かった俺は、音楽棟の前でふと立ち止まった。吹奏楽部の練習ホールから漏れ出す音が、空気を震わせている。
高らかなトランペット、正確無比なクラリネットの旋律、そして——その奥から、あのホルンの音色が聴こえてくる。
——陽葵、戻ったんだな。
まだ完全には回復していない。右耳の聴力は相変わらず不安定で、医者からは「無理は絶対にするな」と釘を刺されている。だけど彼女は、自分の意志でホルンを手にした。俺が押しつけたものじゃない。
彼女自身が「もう一度、音楽に向き合う」と決めたんだ。
その音は、確かに少し不安定で、昔のような伸びやかさには届かない。
でも、そのぶん、震えるような感情が込められていた。
俺はその音を聴きながら、心の中でそっと呟く。
——負けてられないな。
音楽祭の前哨戦、「合同発表会」は三日後に迫っていた。吹奏楽部、軽音サークル、アカペラグループ、ダンスサークルなどが、それぞれのパフォーマンスを大学ホールで披露する。
学生たちの“音”のすべてがぶつかりあう舞台。ここで注目を集めれば、音楽祭当日の出演枠も大きく変わる。それがわかっているから、みんな必死だった。
「奏くん、いたー!」
背後から軽やかな声が響いた。振り返ると、軽音サークルの後輩——橘ひまりがこちらに駆けてくる。
「もう、バンド練習始まってるよ! っていうか、またホールに盗み聴きしに来てたでしょ」
「盗み聴きじゃない。視察だ」
「はいはい、プロ意識高すぎ。……でも、今日の彼女の音、良かったよね」
「……ああ」
ひまりはふっと笑う。いつも元気な彼女の笑顔の奥にも、どこか切なさが混じっている。
「なんかさ、あの人の音って……“苦しさ”ごと、楽器に流し込んでる感じがする。すごいなって思う。私はあんなふうにできないから」
ひまりはそう言いながら、ちらりと俺の横顔を見てくる。
「奏くんは……どうするの? あの子の隣にいる覚悟、もう決めたの?」
「……うん。決めたよ」
「そっか。……じゃあ、私の出る幕、もうないね」
その言葉は冗談のように笑っていたけど、どこか本気だった。
——彼女もまた、心に“音”を抱えている。
「ごめん」
「……ううん、言わなくていいよ。こうやってちゃんと振られるの、私、初めてだから」
その笑顔は少し泣きそうで、でもちゃんと前を向いていた。
「じゃあ、リハ行こうか。音楽祭の主役は、こっちも負けないからね!」
そう言って歩き出すひまりの背中を追いながら、俺は改めて思う。
この大学には、こんなにもいろんな“音”があって、それぞれが誰かの物語を奏でている。
そのなかで、俺が鳴らす音は、誰に届くのだろうか。
——そして、陽葵の耳に、もう一度、ちゃんと届くだろうか。
*
合同発表会の三日前、明晴大学のホールで、各団体によるリハーサルが行われていた。
広い舞台、揺れる暗幕、響きすぎるほどの残響。
いつもの練習部屋とは勝手がまったく違うこの場所で、俺たちは音を合わせていた。
「——いける。リズムも、ハーモニーも、悪くない」
ドラムの凛音がスティックを回しながら言った。
「でも奏くん、サビ前の転調のとこ、少し溜めが足りないかも?」
「……了解。もうちょいテンポ落として溜める」
俺はギターのネックを握り直し、肩の力を抜く。足元のエフェクターを踏み込み、次のテイクへと備える。
サビに入る瞬間——
観客席の奥で、何かが動いた気がした。
目を凝らすと、そこに陽葵の姿があった。制服ではなく、ラフなパーカーにジーンズという格好。きっとリハの合間を縫って見に来たのだろう。
俺の演奏を見ている。真っ直ぐな視線で。
彼女の視線に気付いた瞬間、なぜか俺の心臓が跳ねた。
緊張ではない。恐れでもない。ただ、まっすぐに「届けたい」と思った。
——この音が、君の耳に届くように。
再び弾き始めたその瞬間、ホールの空気が変わった。客席のひとり、たったひとりの聴衆のために、俺はギターを鳴らす。
伸びていくアルペジオ。絡み合うベースライン。重なるコーラス。
やがて曲が終わると、場内に静けさが戻った。
俺はギターを置いて、そっと観客席へと降りていく。
陽葵はステージ下の暗がりで待っていた。小さく、そして確かに笑っていた。
「……久しぶりに聴いた。奏の音」
「……どうだった?」
「ひとつ、足りなかった」
「……どこ?」
陽葵は、俺の胸のあたりを、ぽすっと指でつついた。
「“心臓”。もっとちゃんと鳴らせ」
「……なるほど。厳しいね」
「当然。私は演奏者だから」
その一言で、胸の奥が少し熱くなった。
ああ、やっぱり彼女は——音楽の人間だ。
「合同発表会、見に来る?」
「うん。自分の出番が終わったら、絶対行く」
彼女の声が、少しだけ震えていた。
たぶん、演奏することが怖いんだろう。音を失いかけた恐怖が、まだ彼女を縛っている。
それでも陽葵は、ステージに立つ。
「……怖くないの?」
僕が問うと、陽葵は少し黙ったあとで、こう言った。
「怖いよ。……でも、それ以上に、今度こそ“誰かに届く”かもしれないって思えるから。だから、吹く」
——その言葉を、俺は忘れない。
ふたり並んでホールの中央に立つと、音のない静寂がそこにあった。
でも、きっと次にここに立つとき、俺たちはそれぞれの音で、その静寂を満たすのだろう。
君の音が、俺の心に届くように。
そして——
俺の音が、君の耳に届くように。




