表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
52/56

第52話 ホールのリハーサル

 十月も終わりに差し掛かると、街の空気が少しずつ冬の輪郭を帯びはじめる。


 その朝、いつものようにギターケースを背負って明晴大学に向かった俺は、音楽棟の前でふと立ち止まった。吹奏楽部の練習ホールから漏れ出す音が、空気を震わせている。


 高らかなトランペット、正確無比なクラリネットの旋律、そして——その奥から、あのホルンの音色が聴こえてくる。


 ——陽葵、戻ったんだな。


 まだ完全には回復していない。右耳の聴力は相変わらず不安定で、医者からは「無理は絶対にするな」と釘を刺されている。だけど彼女は、自分の意志でホルンを手にした。俺が押しつけたものじゃない。


 彼女自身が「もう一度、音楽に向き合う」と決めたんだ。


 その音は、確かに少し不安定で、昔のような伸びやかさには届かない。


 でも、そのぶん、震えるような感情が込められていた。


 俺はその音を聴きながら、心の中でそっと呟く。


 ——負けてられないな。


 音楽祭の前哨戦、「合同発表会」は三日後に迫っていた。吹奏楽部、軽音サークル、アカペラグループ、ダンスサークルなどが、それぞれのパフォーマンスを大学ホールで披露する。


 学生たちの“音”のすべてがぶつかりあう舞台。ここで注目を集めれば、音楽祭当日の出演枠も大きく変わる。それがわかっているから、みんな必死だった。


「奏くん、いたー!」


 背後から軽やかな声が響いた。振り返ると、軽音サークルの後輩——橘ひまりがこちらに駆けてくる。


「もう、バンド練習始まってるよ! っていうか、またホールに盗み聴きしに来てたでしょ」


「盗み聴きじゃない。視察だ」


「はいはい、プロ意識高すぎ。……でも、今日の彼女の音、良かったよね」


「……ああ」


 ひまりはふっと笑う。いつも元気な彼女の笑顔の奥にも、どこか切なさが混じっている。


「なんかさ、あの人の音って……“苦しさ”ごと、楽器に流し込んでる感じがする。すごいなって思う。私はあんなふうにできないから」


 ひまりはそう言いながら、ちらりと俺の横顔を見てくる。


「奏くんは……どうするの? あの子の隣にいる覚悟、もう決めたの?」


「……うん。決めたよ」


「そっか。……じゃあ、私の出る幕、もうないね」


 その言葉は冗談のように笑っていたけど、どこか本気だった。


 ——彼女もまた、心に“音”を抱えている。


「ごめん」


「……ううん、言わなくていいよ。こうやってちゃんと振られるの、私、初めてだから」


 その笑顔は少し泣きそうで、でもちゃんと前を向いていた。


「じゃあ、リハ行こうか。音楽祭の主役は、こっちも負けないからね!」


 そう言って歩き出すひまりの背中を追いながら、俺は改めて思う。


 この大学には、こんなにもいろんな“音”があって、それぞれが誰かの物語を奏でている。


 そのなかで、俺が鳴らす音は、誰に届くのだろうか。


 ——そして、陽葵の耳に、もう一度、ちゃんと届くだろうか。







 合同発表会の三日前、明晴大学のホールで、各団体によるリハーサルが行われていた。


 広い舞台、揺れる暗幕、響きすぎるほどの残響。


 いつもの練習部屋とは勝手がまったく違うこの場所で、俺たちは音を合わせていた。


「——いける。リズムも、ハーモニーも、悪くない」


 ドラムの凛音がスティックを回しながら言った。


「でも奏くん、サビ前の転調のとこ、少し溜めが足りないかも?」


「……了解。もうちょいテンポ落として溜める」


 俺はギターのネックを握り直し、肩の力を抜く。足元のエフェクターを踏み込み、次のテイクへと備える。


 サビに入る瞬間——


 観客席の奥で、何かが動いた気がした。


 目を凝らすと、そこに陽葵の姿があった。制服ではなく、ラフなパーカーにジーンズという格好。きっとリハの合間を縫って見に来たのだろう。


 俺の演奏を見ている。真っ直ぐな視線で。


 彼女の視線に気付いた瞬間、なぜか俺の心臓が跳ねた。


 緊張ではない。恐れでもない。ただ、まっすぐに「届けたい」と思った。


 ——この音が、君の耳に届くように。


 再び弾き始めたその瞬間、ホールの空気が変わった。客席のひとり、たったひとりの聴衆のために、俺はギターを鳴らす。


 伸びていくアルペジオ。絡み合うベースライン。重なるコーラス。


 やがて曲が終わると、場内に静けさが戻った。


 俺はギターを置いて、そっと観客席へと降りていく。


 陽葵はステージ下の暗がりで待っていた。小さく、そして確かに笑っていた。


「……久しぶりに聴いた。奏の音」


「……どうだった?」


「ひとつ、足りなかった」


「……どこ?」


 陽葵は、俺の胸のあたりを、ぽすっと指でつついた。


「“心臓”。もっとちゃんと鳴らせ」


「……なるほど。厳しいね」


「当然。私は演奏者だから」


 その一言で、胸の奥が少し熱くなった。


 ああ、やっぱり彼女は——音楽の人間だ。


「合同発表会、見に来る?」


「うん。自分の出番が終わったら、絶対行く」


 彼女の声が、少しだけ震えていた。


 たぶん、演奏することが怖いんだろう。音を失いかけた恐怖が、まだ彼女を縛っている。


 それでも陽葵は、ステージに立つ。


「……怖くないの?」


 僕が問うと、陽葵は少し黙ったあとで、こう言った。


「怖いよ。……でも、それ以上に、今度こそ“誰かに届く”かもしれないって思えるから。だから、吹く」


 ——その言葉を、俺は忘れない。


 ふたり並んでホールの中央に立つと、音のない静寂がそこにあった。


 でも、きっと次にここに立つとき、俺たちはそれぞれの音で、その静寂を満たすのだろう。


 君の音が、俺の心に届くように。


 そして——


 俺の音が、君の耳に届くように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ