第50話 濁った旋律
六月の曇り空は、どこか息苦しい。
それでも、陽葵は足を止めなかった。かつて毎日のように通っていた、私立明晴大学・音楽棟の一室。吹奏楽部の部室へと、ゆっくりと、まっすぐに向かっていた。
——彼女の歩みが、音楽を取り戻そうとしている。
俺は少し離れた場所から、その背中を見守っていた。
「緊張してる?」
そう問いかけた俺に、陽葵は首を振った。
「ううん、怖いだけ」
「……無理しなくていい」
「わかってる。けど、もう逃げたくないの」
部室の前に立ち止まり、深呼吸をひとつ。陽葵はドアノブに手をかけた。
ギィ、ときしむような音。
その瞬間、部室内にいた数人の部員の視線が、一斉に彼女へと向いた。
「……陽葵?」
「戻ってきたの?」
「てかさ、今さら?」
次々に飛んでくる言葉は、歓迎とも拒絶ともつかない曖昧な音で、彼女を包み込む。
それでも、陽葵は一歩踏み出して、中へと入った。
「戻らせてほしい。……もう一度、ホルンを吹きたいの」
静かな声だったが、震えていた。
彼女の言葉に、部室の空気が揺れた。
すると、部屋の奥からひとりの上級生が立ち上がった。
「勝手に休んで、戻ってきて、何様のつもり?」
声の主は、かつて陽葵を排除しようとした、吹奏楽部の指導的立場にある3年生、永井。
「あなたがいなくなって、雰囲気が良くなったって言ってた子もいたんだよ」
冷たく、明瞭に放たれた言葉だった。
「わかってる……。でも、それでも私は——」
陽葵の声が詰まる。
俺は思わず前に出そうになる足を止めた。これは、彼女自身の戦いだ。俺が口を出す場面じゃない。
「なら、証明してもらうわ」
永井は冷笑を浮かべながら、ホルンの譜面を手に取った。
「この曲、吹いてみて。あなたが本当に戻る資格があるなら、音で示しなさい」
その曲のタイトルを見て、陽葵が目を見開いた。
《幻想序曲 第三番 変ホ長調》。
——彼女が中学時代から憧れ続け、そして高校時代に挫折しかけた、特別な一曲だった。
「……いいわ。吹く」
譜面を手に取った陽葵は、深く息を吸い込み、静かにホルンを構えた。
その姿は、震えていても、確かに前を向いていた。
俺は、静かに目を閉じた。
彼女の音が、どうか誰かの心に届きますように——。
*
部室に静寂が降りた。
陽葵がホルンを構え、譜面をじっと見つめている。手は微かに震えていたが、唇にマウスピースをあてる動作には、迷いがなかった。
息を吸い込み、音が鳴った。
最初の一音。
それは——濁っていた。
ほんのわずかなピッチの狂い。少しだけ、リズムが走った。それでも、陽葵は止まらない。
二音目、三音目。
彼女の音は、かつてのような完璧さはない。耳が万全でないのは、彼女自身が一番よくわかっているはずだ。だが、音の奥に、感情がある。意志がある。
その場にいた誰もが、陽葵の演奏に言葉を失っていた。
技術ではない。
魂を込めて吹かれた音は、まるで祈りのように響いた。
——それは、僕にとってもそうだった。
彼女がこの曲に込めてきた想い。どれほどの痛みと戦い、どれほどの夜を越えてきたのか。音の一つひとつが、その記憶を語っていた。
そして最後の一音が、空気を震わせるように部屋へ溶けていく。
静寂が戻る。
誰も、すぐには口を開けなかった。
永井が腕を組んだまま言う。
「……ふーん。まあ、下手じゃなかったわ」
それだけを吐き捨てると、彼女は背を向けた。
しかし——。
「私は、すごく良かったと思う」
控えめな声が部室の隅から上がる。
視線の先には、1年生らしき女子部員が立っていた。
「音、ちゃんと届きました。泣きそうになったの……」
続けて、数人の部員がぽつぽつと口を開き始める。
「俺も……あの曲、好きなんだよね」
「戻ってきてほしい。正直、陽葵先輩がいないの、寂しかったから」
やがて、まるで堰を切ったように、部室内の空気が変わっていった。
陽葵は一言も発さずに、ただその場に立っていた。肩で息をしながら、まっすぐに皆の目を見ていた。
それは、沈黙の中の強さだった。
部長が前に出て、言った。
「……復帰を正式に認めます。陽葵、また一緒に音楽やろう」
その言葉に、天音の頬がかすかに震えた。
彼女は深く一礼した。
「……ありがとう、ございます」
その背中を、俺は廊下から見つめていた。
音楽が、彼女を再び呼び戻した。
でも同時に、彼女が音楽を、再び抱きしめにいったんだ。
——その夜、俺の部屋のソファで毛布にくるまった彼女が、ぽつりと呟いた。
「……聞こえたんだ」
「……え?」
「最後の音。ちゃんと、自分の中で鳴ってるって思えたの。耳じゃなくて……心で」
俺は返す言葉が見つからず、ただ彼女の頭をそっと撫でた。
たぶん、あの日あの場所で鳴っていたのは——ただのホルンの音なんかじゃない。
——彼女の「生きたい」という、音だった。




