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家という音のない檻

人の家のチャイムを鳴らすのは、こんなにも緊張するものだっただろうか。


しかも、それがかつて同じ吹奏楽部にいた同期の女子の家ともなれば、なおさらだ。


 


駅から徒歩十五分。古い住宅街の奥、白い木造の戸建て。


小さな庭に咲いていた紫陽花は、まだつぼみだった。


季節は、少しずつ、梅雨の気配を帯びはじめている。


 


「……やっぱ、やめるか」


そう口にした瞬間だった。


 


——ガチャリ。


無言で開かれた玄関のドア。


出てきたのは、スーツ姿の女性だった。


その整えられた髪と、冷たい眼差しに、僕は思わず背筋を伸ばした。


 


「……あなた、陽葵の……大学のお友達?」


「はい。八坂です。陽葵さんに……ノートを、届けに」


とっさに口から出た言葉は、自分でも驚くほど嘘くさくなかった。


女性——おそらく母親だろう——は数秒の沈黙の後、玄関を開けて言った。


 


「少し待ってて。呼んでくるから」


 


家に上がるようには言われなかった。


けれど、そのまま帰る気にもなれなかった。


陽葵の家の前に立っているというだけで、胸の奥で何かがザワついていた。


 


数分後、現れた陽葵は、寝間着姿のままだった。


そのまま僕を見て、口元をすこしだけ歪めた。


笑顔、だったのかもしれない。


でも、笑っていない目だった。


 


「……どうしたの?」


「お前が“話したい”って言ったんだろ。今度は、俺の番」


 


彼女の視線が一瞬揺れた。


それでも、何も言わずに、玄関を閉めて、そのまま門の外に出てきた。


そして、僕らは近くの公園まで歩いた。


 


***


 


公園のベンチ。誰もいない午後の風景。


陽葵は、ゆっくりと腰を下ろすと、膝に手を置いて小さく息を吐いた。


 


「……ごめんね。なんか、わざわざ来させて」


「謝るな。俺が勝手に来ただけだ」


「ふふ。変わらないね、そういうとこ」


 


彼女はそう言って、顔を上げる。


その目には、乾いた空の色が映っていた。


 


「母親、嫌な感じだったでしょ」


「正直、ちょっと怖かった」


「だよね。あの人は昔から、ああやって全部“正しさ”で片づける人だから」


 


陽葵は、自嘲気味に笑った。


でもその笑いには、どこか「諦め」が混じっていた。


 


「私、音楽以外、何も誇れるものなかったの。成績も中途半端、性格も扱いづらいって言われて、友達もあんまり長続きしなかったし」


「……」


「でもね、ホルンだけは、褒められた。うまいね、って。才能あるね、って」


 


その言葉のひとつひとつが、どこか昔の“亡霊”みたいに聞こえた。


陽葵の過去の断片たちは、彼女自身の中で、未だに音を立てて鳴り響いている。


そして、それが今の彼女を苦しめている。


 


「でも、今は……その音が、うまく聞こえない」


 


風が吹いた。


彼女の髪がゆらりと揺れる。


 


「私、これから、何にすがって生きていけばいいのかな」


 


その言葉に、僕はしばらく答えを返せなかった。


けれど——その沈黙を破ったのは、僕ではなく、彼女のスマホだった。


 


着信。

画面には「妹」の名前。


陽葵は一瞬顔をしかめたが、すぐに電話に出た。


 


「……なに?」


通話の向こうの声は聞こえない。


でも、彼女の表情だけで、それが“良い内容”ではないことはわかった。


 


「今は……無理。いいから、先に食べてて」


陽葵は電話を切ると、僕に苦笑を向けた。


 


「やっぱ家、帰りたくないな」


その一言が、何よりも本音だった。


 


僕は、迷わず口を開いた。


「じゃあ、今日……俺んとこ、来るか?」


 


陽葵は、言葉を失ったように僕の顔を見る。


そして、そっと目を細めた。


 


「……いいの?」


「部屋は汚いけどな。あと、ベッドはひとつしかない」


「ふふ。私はソファでいいよ」


その笑顔は、久しぶりに“本物”だった。


***


「ここが……奏の部屋か」


 


陽葵が部屋の中を見回しながら、ふぅんと息を漏らす。


古びた1K、六畳の床にはコードやエフェクターが散らばり、壁際にはアコースティックギターが立てかけられている。


見られて恥ずかしいものは特にないが、どうにも落ち着かない。


 


「思ったより、ちゃんとしてる」


「そりゃどうも。配信もここでやってる」


 


キッチンに麦茶を用意しながら、僕はちらりと彼女を見る。


寝間着姿のまま、畳んだままの洗濯物の隣にちょこんと座る陽葵は、どこか場違いな小動物みたいだった。


 


「なんか、男子の部屋って……独特だね。匂いとか」


「それはたぶん、昨日のライブ配信で汗かいた服が……」


「あー、それかも。男子っぽいね」


 


陽葵はクスクスと笑った。


さっきまでの硬さが、少しだけ和らいでいる。


僕は彼女の前に麦茶の入ったコップを置き、隣のソファに座った。


 


「なあ」


「ん?」


「お前、耳……今、どんな感じなんだ?」


 


陽葵はその問いに、しばらく黙っていた。


そして、ゆっくりと口を開いた。


 


「右耳が、ほとんど聞こえない。左も、少しだけ篭った感じ」


「それって……もう、治らないのか?」


「たぶん。医者には、“突発性の感音難聴”だって。早く処置してれば違ったかもって言われたけど……もう遅いんだって」


 


彼女の声は平坦だった。でも、どこか凍りついたようでもあった。


僕は言葉を選びかけて——選ぶのをやめた。


下手な慰めは、今の彼女には届かない。


 


「音楽、続けるつもりか?」


「わかんない。でも……やめたくないとは思ってる。でも、無理かもって、思ってる」


 


彼女の指が、ぎゅっと膝を掴んだ。


震えていた。


 


「音が、遠くなったの。ホルンの音も、周りの音も、自分の声も」


「……」


「でも、一番怖かったのは——沈黙だった」


 


沈黙。


彼女は、その沈黙に、押し潰されそうになっていたのかもしれない。


 


僕は、ギターに手を伸ばした。


 


「なにするの?」


「弾いてもいいか」


「……うん」


 


僕はチューニングもそこそこに、静かにコードを鳴らす。


昔、吹奏楽部で陽葵が好きだったあの曲——映画のテーマソングだったか、誰かの卒業演奏だったか、よく覚えていない。


けれど、そのメロディだけは、指が自然に覚えていた。


 


数小節、音を鳴らすうちに——彼女が、小さく震えた。


そして、ぽつりと漏らす。


 


「……聞こえる」


 


彼女の頬を、一筋の涙が伝った。


 


「ちゃんと、聞こえるよ……ギターの音……奏の、声も」


「そっか」


「……ありがとう」


 


その声に、僕は返事をしなかった。


たぶん、何も言わなくても、伝わっていた気がした。


 


***


 


夜は、床に布団を敷き、僕がそこへ寝て、彼女にはベッドを使わせた。


陽葵は「悪いよ」なんて言いながらも、ベッドの柔らかさに素直に安心しているようだった。


部屋の明かりを落とす。


二人だけの静寂。


 


「ねえ、奏」


「ん?」


「私、ここにいていいのかな」


「いいよ。明日も、明後日も、好きなだけ」


 


その言葉に、彼女は少しだけ微笑んだ。


まるで、壊れそうなガラス細工みたいな、かすかな笑顔。


 


——でもその夜、彼女が眠るまでのあいだ、彼女の肩はずっと震えていた。

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