第49話 再会の前奏
久しぶりに、彼女が大学に姿を見せた。
私立明晴大学の正門を、少しうつむき加減でくぐる陽葵の姿は、以前の彼女とはどこか違って見えた。
肩まで伸びた髪はそのままだったけれど、無理に整えられたような跡がある。服もアイロンの折り目がやけにくっきりとしていて、まるで誰かに「着せられた」ようだった。
それでも。
俺は、歩いてきた彼女に気づき、思わず足を止めた。
「……おかえり」
声に出すのは、これが精一杯だった。
彼女は俺を見つけると、わずかに驚いたように立ち止まり、そして小さく頷いた。
「ただいま……奏くん」
その声は、少し掠れていた。きっとまだ体調は万全ではないのだろう。
だけど、その一言だけで、何かが報われたような気がした。
*
陽葵が大学に戻ってきたという噂は、瞬く間に広まった。
「病気だったらしい」「家の事情?」「先輩ともめたらしいよ」——真偽不明の噂が飛び交い、廊下では彼女の背中に向かってささやかれる視線が増えた。
だが、彼女はひとつも気にするそぶりを見せなかった。
たぶん、気にする余裕すらないのだと思う。目の奥には、どこか「今だけにしがみついている」ような焦燥があった。
「ねえ……この間の練習、またやってくれる?」
そう言ったのは、昼休みの中庭だった。
彼女が、俺にそう言ってきた。
視線は、俺の手元——ギターケースのファスナーの先に向いている。
「もちろん。……でも、無理はするなよ?」
「うん。わかってる。……でも、あの音がないと、わたし、たぶん……戻れなかったから」
彼女の言葉は、まるで壊れそうなガラス細工みたいに繊細だった。
俺はギターのケースを開き、静かに弦を撫でる。
——届いてくれ、この音が。
今の彼女に、ちゃんと。
*
放課後。
音楽室には、またふたりの音が重なった。
ホルンの音は、まだ本調子ではない。高音域はあえて避け、短く、切れ目の多い旋律を中心に。
俺のギターは、それを包み込むように、静かに鳴った。
扉の外。今日も、誰かが聞いているかもしれない。
でも、気にしない。
この音が「彼女の帰る場所」になれるなら。
この音が「彼女がもう一度、信じられる何か」になるなら——。
俺は、いくらでも、弾ける。
*
音楽室の窓は、少しだけ開けられていた。
春が終わりかけ、梅雨の気配が近づいている。湿った風が、ギターとホルンの音をどこかへ運んでいく。
——この音を、誰かが聴いている。
そんな予感がした。
「……ありがとう」
演奏が終わった直後、陽葵はそう呟いた。
視線はまだ楽譜の上に落ちていたが、かすかに潤んだ目元が、彼女の気持ちを語っていた。
「少しずつ、戻していけばいい。急がなくていいんだ」
「うん……うん、わたしも、そう思う」
それでも、彼女のホルンのケースに貼られた傷跡は、簡単には癒えないのだろう。擦られ、剥がされ、上から何かで覆われた跡。まるで、彼女自身の心みたいだった。
——それでも、彼女はここにいる。
その事実だけで、俺の心は少しだけ強くなれた。
*
「……ねえ、奏」
音楽室を出た直後、長い廊下の先から、誰かが声をかけてきた。
一条天音だった。
白いブラウスの袖を少し巻き上げて、片手にジュースのカートンを持ったまま、こちらに近づいてくる。
「天音……」
「さっきの、聴こえてたよ」
「……そっか」
彼女の声に、責めるような響きはなかった。ただ、少しだけ寂しそうだった。
「きれいだった。ホントに。あの人、やっぱり、すごいね……」
「……ああ」
「でも、ちょっとだけ、悔しかったな」
彼女のその一言に、俺は答えを返せなかった。
天音の笑顔は、どこか泣きそうな目をしていた。
「……ねえ、また私の曲も、弾いてくれる?」
「……もちろん」
「じゃあ、今度はちゃんと聴いてね。私の音。私の気持ち」
彼女はそう言って、小さく笑って去っていった。
背中越しに、小さく手を振りながら。
*
その日の夜、帰宅してギターをケースに戻すと、スマホに通知がひとつ届いていた。
送り主は——藍沢環。
《陽葵さん、戻ってきたんだってね。よかった。……本当によかった》
その短い文章に、写真が一枚添えられていた。
それは、大学の中庭で撮られた、陽葵の後ろ姿。
少しだけ、前より背筋が伸びているように見えた。
《でも、あたし、まだ諦めてないから》
続くメッセージのその一文が、どこか可笑しくて、どこか痛かった。
誰かの想いが、音になって届くこともある。
そして、音にならないまま、胸に残っていくこともある。
俺は、そのどちらにも、まだ応えることができないまま——ギターの弦を、そっと弾いた。




