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第49話 再会の前奏

 久しぶりに、彼女が大学に姿を見せた。


 私立明晴大学の正門を、少しうつむき加減でくぐる陽葵の姿は、以前の彼女とはどこか違って見えた。


 肩まで伸びた髪はそのままだったけれど、無理に整えられたような跡がある。服もアイロンの折り目がやけにくっきりとしていて、まるで誰かに「着せられた」ようだった。


 それでも。


 俺は、歩いてきた彼女に気づき、思わず足を止めた。


「……おかえり」


 声に出すのは、これが精一杯だった。


 彼女は俺を見つけると、わずかに驚いたように立ち止まり、そして小さく頷いた。


「ただいま……奏くん」


 その声は、少し掠れていた。きっとまだ体調は万全ではないのだろう。


 だけど、その一言だけで、何かが報われたような気がした。


 





 陽葵が大学に戻ってきたという噂は、瞬く間に広まった。


 「病気だったらしい」「家の事情?」「先輩ともめたらしいよ」——真偽不明の噂が飛び交い、廊下では彼女の背中に向かってささやかれる視線が増えた。


 だが、彼女はひとつも気にするそぶりを見せなかった。


 たぶん、気にする余裕すらないのだと思う。目の奥には、どこか「今だけにしがみついている」ような焦燥があった。


「ねえ……この間の練習、またやってくれる?」


 そう言ったのは、昼休みの中庭だった。


 彼女が、俺にそう言ってきた。


 視線は、俺の手元——ギターケースのファスナーの先に向いている。


「もちろん。……でも、無理はするなよ?」


「うん。わかってる。……でも、あの音がないと、わたし、たぶん……戻れなかったから」


 彼女の言葉は、まるで壊れそうなガラス細工みたいに繊細だった。


 俺はギターのケースを開き、静かに弦を撫でる。


 ——届いてくれ、この音が。


 今の彼女に、ちゃんと。







 放課後。


 音楽室には、またふたりの音が重なった。


 ホルンの音は、まだ本調子ではない。高音域はあえて避け、短く、切れ目の多い旋律を中心に。


 俺のギターは、それを包み込むように、静かに鳴った。


 扉の外。今日も、誰かが聞いているかもしれない。


 でも、気にしない。


 この音が「彼女の帰る場所」になれるなら。


 この音が「彼女がもう一度、信じられる何か」になるなら——。


 俺は、いくらでも、弾ける。







 音楽室の窓は、少しだけ開けられていた。


 春が終わりかけ、梅雨の気配が近づいている。湿った風が、ギターとホルンの音をどこかへ運んでいく。


 ——この音を、誰かが聴いている。


 そんな予感がした。


「……ありがとう」


 演奏が終わった直後、陽葵はそう呟いた。


 視線はまだ楽譜の上に落ちていたが、かすかに潤んだ目元が、彼女の気持ちを語っていた。


「少しずつ、戻していけばいい。急がなくていいんだ」


「うん……うん、わたしも、そう思う」


 それでも、彼女のホルンのケースに貼られた傷跡は、簡単には癒えないのだろう。擦られ、剥がされ、上から何かで覆われた跡。まるで、彼女自身の心みたいだった。


 ——それでも、彼女はここにいる。


 その事実だけで、俺の心は少しだけ強くなれた。







「……ねえ、奏」


 音楽室を出た直後、長い廊下の先から、誰かが声をかけてきた。


 一条天音だった。


 白いブラウスの袖を少し巻き上げて、片手にジュースのカートンを持ったまま、こちらに近づいてくる。


「天音……」


「さっきの、聴こえてたよ」


「……そっか」


 彼女の声に、責めるような響きはなかった。ただ、少しだけ寂しそうだった。


「きれいだった。ホントに。あの人、やっぱり、すごいね……」


「……ああ」


「でも、ちょっとだけ、悔しかったな」


 彼女のその一言に、俺は答えを返せなかった。


 天音の笑顔は、どこか泣きそうな目をしていた。


「……ねえ、また私の曲も、弾いてくれる?」


「……もちろん」


「じゃあ、今度はちゃんと聴いてね。私の音。私の気持ち」


 彼女はそう言って、小さく笑って去っていった。


 背中越しに、小さく手を振りながら。







 その日の夜、帰宅してギターをケースに戻すと、スマホに通知がひとつ届いていた。


 送り主は——藍沢環。


《陽葵さん、戻ってきたんだってね。よかった。……本当によかった》


 その短い文章に、写真が一枚添えられていた。


 それは、大学の中庭で撮られた、陽葵の後ろ姿。


 少しだけ、前より背筋が伸びているように見えた。


《でも、あたし、まだ諦めてないから》


 続くメッセージのその一文が、どこか可笑しくて、どこか痛かった。


 誰かの想いが、音になって届くこともある。


 そして、音にならないまま、胸に残っていくこともある。


 俺は、そのどちらにも、まだ応えることができないまま——ギターの弦を、そっと弾いた。


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