第48話 秘密の練習曲
秋の夕暮れ。大学の裏手にある、誰も使っていない旧講義棟の音楽室。
そこが、今の俺たちの“秘密基地”だった。
吹奏楽部に戻ることをまだ決めきれていない陽葵は、人目を避けるように、俺とだけ一緒に音楽の時間を過ごしていた。
「この部屋……ホコリっぽいけど、響きは悪くないね」
窓を半分だけ開けた陽葵が、ホルンを膝にのせながら言う。俺は彼女の隣でアコギの弦を調律していた。
「この建物、来年度取り壊されるって話だ。だから誰も来ない」
「じゃあ……それまでは、ここがふたりの練習室?」
「そうだな。音出し放題だし、叫びたくなっても大丈夫」
「叫ぶのは、あなただけでしょ」
陽葵が小さく笑う。まだ不安はあるのだろう。でも、彼女の笑顔は日に日に自然になっていた。
俺は、コードをひとつ爪弾く。
「この曲、合わせてみようか」
手渡したのは、自分で書いた短いメロディー。陽葵のホルンの音域に合わせ、俺がギターでハーモニーを支える簡単な曲。
「……わたしのために、作ったの?」
「違うよ」
そう即答したあと、俺は少し黙って、それから目をそらさずに言った。
「“俺たち”のために、作ったんだ」
陽葵は一瞬だけ驚いた顔をしたあと、少し頬を赤らめて、譜面に視線を落とす。
「……変な人」
「言われ慣れてる」
そんなやりとりのあと、俺たちは一緒に音を出しはじめた。
ギターのアルペジオに、ホルンの柔らかい旋律が重なっていく。
それは、大学の片隅の誰もいない場所で紡がれる、小さな音楽だった。
でも俺には、それがどんなライブよりも美しく感じられた。
——ただ、扉の外に、気配がひとつあったことを、このときの俺はまだ知らない。
*
音楽室の扉が、わずかに開いていた。
その隙間からこぼれてくる、ふたりの音。
ギターの静かなアルペジオと、それに寄り添うようなホルンの旋律。
藍沢環は、足を止めたまま動けずにいた。
(……この音、なんで……)
ギターの音に聴き覚えがあった。いや、忘れられるはずがなかった。
彼——八坂奏の音だった。
環にとってそれは、高校時代のある日、誰にも見せずに投稿されていた“動画”で出会った音だった。
あの日、自分がしんどくて、帰り道の公園で泣いていたとき、イヤホンから流れてきたその音に、救われた記憶がある。
(嘘……どうして……彼が……)
扉の隙間から見えたのは、ギターを爪弾く奏と、その隣でホルンを抱える少女——陽葵だった。
演奏が終わり、ふたりが顔を見合わせて、微笑んだ。
ただの練習風景。それ以上でも、それ以下でもない。
けれど。
環の胸には、重いものが広がっていった。
「……知らなかった。あなたが、あんな顔で笑うなんて」
小さくつぶやいて、彼女は静かにその場を離れた。
気づかれないように。音を立てないように。
ただ、心の奥のほうで、何かが崩れていくのを感じながら。
*
数日後、環は偶然を装って俺の部屋を訪れた。
「この前のアレ、またやるの? 弾き語り配信」
「まあ、気が向いたらな」
「そっか。……ねえ、奏」
「ん?」
「もしさ、あたしが今から全力で頑張ったら……陽葵ちゃんより先に、あんたに“好き”って言ったら……勝てるかな」
その言葉に、俺は思わず手を止めた。
「どうしてそう思うんだ?」
「だってあたし……あの子と違って、音楽なんか、ただの逃げ道だったし。うまくもないし、誰かを感動させたことなんかない」
言葉の端々に混じる、自嘲と焦り。
でも、俺はそれに首を振った。
「逃げでも何でも、誰かが本気で続けてることに、意味がないなんてことはないよ。環、お前が続けてるの、俺は知ってる。ちゃんと、見てる」
環の目が、少しだけ揺れた。
「……ほんと、ずるいよ、あんた」
そう言って、彼女は俺のギターの弦を一本、軽くはじいた。
澄んだ音が、部屋に響いた。
彼女の中で何かが静かに決意に変わったのを、その音が教えてくれたような気がした。




