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第45話 雨音とノイズ

陽葵の笑顔が、あの夜の音楽棟に滲んでいた。


この街は、今日も変わらず曇り空だった。

季節の変わり目の不安定な空模様は、まるで陽葵の気持ちのようで——あるいは、俺の気持ちのようでもあった。


 


翌日、大学のキャンパスに戻ると、どこか騒がしい空気が流れていた。


耳を澄ますと、何かの噂が飛び交っているのがわかった。


 


「……あれ、マジでやばいらしいよ」


「誰が流したんだろうね。ってか、晒し方、陰湿すぎ」


「吹奏楽部の……あの子でしょ? 陽葵って」


 


その名前を耳にした瞬間、胸がざわついた。


教室に入ると、椅子に腰掛けていた友人の栄太が眉をしかめてスマホを差し出してきた。


「見たか? これ」


 


画面には、匿名掲示板のスクリーンショットが映っていた。


「某大学の吹奏楽部でパワハラ騒動? 部内不和、病み垢晒し、そして……」


そこに書かれていたのは、陽葵を連想させるような、あまりにも無神経で、下劣な言葉たちだった。


 


「これ……誰が……」


「多分、部内の誰かか、その近しい人間だと思う。内容があまりにも具体的すぎる。楽器のこととか、演奏の順位、母親のことまで書かれてる」


 


頭がぐらつく。


陽葵の弱さを、彼女の一番触れてほしくない場所を、誰かが嗅ぎつけて笑ってる。


——それが、どうしようもなく、許せなかった。


 


「陽葵は……知ってるのか」


「わからん。でも、誰かが言ったらしい。今朝、大学に来る途中で駅で泣いてたって。すぐ引き返したって」


 


すぐにスマホを取り出して陽葵に連絡する。


だけど——既読がつかない。


LINEも、電話も、まったく繋がらない。


 


「……まずい」


 


何が、という確証はなかった。


けれど確信だけはあった。

彼女はきっと、今——ひとりで、苦しんでる。


 


俺は席を立ち、教室を飛び出した。

キャンパスを駆け抜けながら、陽葵の家を思い出す。


けれど、あの家にはきっと帰っていない。

母親の罵声が飛び交う場所に、彼女が戻るはずがない。


 


なら、どこへ——。


 


考えるより先に、足は自然と動いていた。


行き先はひとつ。


かつて、彼女と一緒に音を重ねた場所。


 


……吹奏楽部の練習棟。


 


俺の脳裏に、あのホルンの音がよみがえる。


彼女の音が、今にも消えてしまいそうな気がして。

俺は、その音の残響を、必死に追いかけていた。







練習棟の前に着いた時、あたりは静まり返っていた。

扉の向こうに、人の気配はない。


けれど、俺は知っている。

陽葵が、ひとりになりたいときに来る場所。

そして、誰にも音を聞かせたくないときにこもる、旧譜面庫の奥の部屋。


——吹奏楽部の中でも、ほとんど誰も入らない場所だ。


 


錆びたドアノブをゆっくり回すと、鍵はかかっていなかった。

中へと足を踏み入れると、古びた譜面棚の向こうに、膝を抱えてうずくまっている彼女の姿があった。


 


「……陽葵」


 


呼びかけると、陽葵はびくりと肩を揺らした。

顔を上げたその目は、真っ赤に腫れていた。


 


「どうして……ここに……」


「君が、ここにいる気がして」


 


言葉を続けようとして、喉が詰まる。


泣いていたのだ。

声を殺して、誰にも気づかれないように。

それでも、きっと心の中では誰かに見つけてほしかったんだ。


 


「……見た? あれ」


「……ああ。見たよ」


「私……もう終わりだよね。みんなに知られて、笑われて……あんなの……もう、生きてる意味、ないよ」


 


その言葉に、胸の奥がざわりと波立った。


そして俺は、静かに、けれどはっきりと告げた。


 


「違う。終わってなんか、ない」


 


陽葵が顔を上げる。


「……でも」


「誰かが勝手に作った噂で、君の価値が決まるわけじゃない」


「……でも、私は……音楽しか取り柄がなくて……」


「それは違う。——俺は、君の音が好きだ。でも、それだけじゃない」


 


俺はそっと、彼女の隣に腰を下ろした。


「君が、周りに強く見せようとしてることも。

 本当は怖がりで、泣き虫なことも。

 ……それでも前に進もうとする姿も。

 ——ぜんぶ、俺は知ってる。知っていて、好きなんだよ」


 


陽葵の目に、また涙が浮かんだ。


「……なんで、そんなふうに言ってくれるの……」


「君が、大切だからだよ。……それ以上の理由なんて、いる?」


 


しばらくの沈黙のあと、陽葵は震える声で呟いた。


「——怖いよ」


「……うん」


「これからどうなるのかもわかんないし、音も、また聞こえなくなるかもしれない。みんなから嫌われて、孤立して……もう、音楽すら失ったら、私には……なにも……」


 


俺は、そっと彼女の手を握った。


「じゃあ、俺がその"なにも"になってやる」


 


「……え?」


「音が聴こえなくてもいい。演奏できなくてもいい。君が何もなくなったとしても——

 俺は君の隣にいる。君の耳に、俺の音が届くまで、何度でも歌うよ」


 


陽葵の瞳から、涙がこぼれた。

それは、さっきまでの涙とは違う。

少しだけ、温かくて、柔らかい涙だった。


 


「……ずるいよ、それ」


「よく言われる」


 


ふたりの間に、かすかに笑みがこぼれた。

この場所にあるのは、誰にも聞こえない、ふたりだけの音だった。


 


その旋律が、彼女の中で、小さく息を吹き返したような気がした。

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