第43話 遠くで聞こえた拍手
ふたりでの“秘密練習”は、週に二度のペースで続けられていた。
授業が終わったあと、音楽棟の一角で、誰にも見つからないように。
それはまるで、放課後の秘密基地みたいで——どこか甘酸っぱく、そして、少しだけ後ろめたかった。
「ねぇ、奏。今日のAメロ、ちょっと変えてもいい?」
「いいけど、どこを?」
「ここ。ほら、三拍目の入り……」
陽葵が言葉を重ねながら、ホルンの指を動かす。
あんなに自信を失っていたはずの彼女が、今は自分の音に向き合っている。
その姿を見るだけで、俺の胸は、どうしようもなく温かくなる。
「なあ、陽葵」
「なに?」
「……こうして一緒に練習できてるの、なんか不思議だよな」
彼女はしばらく黙ったあと、目を伏せて呟くように言った。
「……高校の頃、奏のこと、ちょっとだけ苦手だった」
「おい、今さらそれ言う?」
「ううん。でも……話しかけようとすると、いつも避けられてたし」
「それは……俺も、だいぶ人付き合い下手だったからな。……今もだけど」
ふたりして小さく笑う。
けれど、あの頃とは違う。
いま俺たちは、こうして並んで音をつくっている。
「……あのさ」
唐突に、陽葵が口を開いた。
「この曲、発表してみたいなって、ちょっと思ってる」
「発表?」
「うん。まだ誰にも言ってないけど……今度、学内の音楽発表会があるの。部外者も自由参加できるやつ。……演奏、してみたい」
驚いた。
何より、彼女の口から「発表」という言葉が出たことに。
まだ完璧じゃない。耳のこともある。
けれど、前を向こうとしている。その気持ちが、何よりも強く伝わってきた。
「……俺も、やるよ」
「え?」
「ふたりで作った曲だろ。だったら、ふたりで演奏するべきだ」
陽葵の目が、大きく見開かれる。
その奥に、ほんの一瞬、涙の光が見えた気がした。
「……ありがとう、奏」
そしてそのとき。
ドアの外から、ほんのかすかな音が聞こえた。
——パチン、パチン。
拍手。小さな、誰かの拍手。
俺たちは同時に顔を見合わせ、静かにドアを開けた。
廊下にはもう誰もいなかった。
けれどその音は、確かに届いていた。
*
「……誰か、いたのかな」
陽葵が小さく呟いた。
ドアの外に残る気配はもうなく、ただ夕方の冷たい風だけが、廊下の空気を揺らしていた。
「たぶん、偶然だよ。音漏れしてただけで、通りすがった誰かが聞いてただけ」
俺はそう言いながらも、自分の声が少し強張っているのを感じていた。
——誰かに聞かれていた。
陽葵が「音楽を失って」、それでも「また吹こうとしている」その姿を。
「もし吹奏楽部の誰かだったら……怒られるかな」
「何に?」
「勝手にホルン持ち出して、部外者と練習して。部活は今、休んでる状態なのに……って」
俺は肩をすくめた。
「別に、部活じゃなくて、音楽をやってるだけだろ。誰かに縛られる必要なんかないさ」
陽葵は少しだけ黙って、それからふっと笑った。
「奏って、ほんと、そういうとこ、自由だよね」
「陽葵は、ちょっと不自由すぎるだけじゃないか?」
「……かもね」
静かな時間が流れた。
夕暮れの光が、練習室のガラス窓を金色に染めていく。
ふたりだけの、この音。
この場所で、たしかに生まれて、ここにだけ残っている。
「ねぇ、奏」
「ん?」
「……私、あの発表会に出られるように頑張る。もし、また音がちゃんと出るようになって、ちゃんと自分で吹けるようになったら……」
「うん」
「そのときは、ありがとうってちゃんと言う。……あの日、私を拾ってくれて、本当にありがとうって」
俺は言葉に詰まり、視線を下に落とした。
あの日。
倒れていた彼女に手を差し伸べたことは、もしかしたら「正解」じゃなかったのかもしれない。
でも、それでも。
「……俺もさ、あのとき、誰かを助けたかったわけじゃないんだ」
「……うん」
「ただ、陽葵の音が、まだどこかに残ってる気がして。それが聴きたくて、たまらなかっただけだ」
陽葵は目を細め、そっと頷いた。
「——わかるよ。私も、奏の音が、ずっと聴きたかったから」
そのとき、また遠くで、誰かの足音が響いた。
今度は確かに聞き覚えのある足取り。
俺はドアに近づき、静かにノブを握る。
「……誰だ?」
ドアを開けると、そこにいたのは——
「やっぱり、奏じゃん。ていうか、ホルンって、まさか……」
軽音サークルの後輩、滝沢瑞希だった。
驚いた顔でこちらを見つめる彼女の目が、一瞬だけ陽葵に向かう。
そして、その視線にほんのわずかな敵意が混じっていたことに、俺は気づいてしまった。




