第42話 ふたりの秘密練習
翌週の放課後。
講義が終わるのを待って、俺は陽葵とともに大学の音楽棟へ向かった。
明晴大学には、吹奏楽部用に防音の練習室がいくつもある。
その中でも今は使われていない、少し古びた小さな部屋を、俺たちは借りていた。
もちろん、正式な手続きはしていない。
だからこれは、俺と陽葵だけの“秘密の練習”。
「だれにも……見つからないといいけど」
陽葵は小声でそうつぶやいた。
その声には、不安というより、少しだけ高揚したような響きが混じっていた。
「だいじょうぶ。……この時間、吹奏楽部は別館で合奏練だ」
「詳しいね」
「ま、軽音サークルだからな。一応、動きはチェックしてる」
俺は小さく笑って、ギターを取り出した。
陽葵はその隣に腰を下ろし、目を閉じた。
「じゃあ、昨日のAメロから入る。合図は肩を軽くたたくから」
「うん。……お願い」
ゆっくり、ゆっくりと音を紡ぐ。
この曲にタイトルはまだない。
だけど、きっと“ふたりの歌”になる。
俺のギターが空気を震わせ、
陽葵はその震えに寄り添うように、ホルンの構えをとった。
けれど——
「……っ、だめ。音が……」
陽葵は唇を噛んだ。
「リズムが、ちょっと……ずれる。わたし、あわせられない……」
ホルンのベルが少しだけ震えていた。
音程も、強さも、不安定。
それでも——
「いいんだ。ゆっくりで」
俺は彼女の手をそっと握った。
「最初から上手くいくわけない。
でも、それでもやるんだろ? 音楽、まだやりたいんだろ?」
陽葵は目を見開き、そして、こくんと小さくうなずいた。
「……うん」
もう一度。
俺たちは音を重ねた。
小さな部屋の中、ふたりだけの演奏が、少しずつかたちを取り始めていく。
*
「もう一回、やろう」
俺が言うと、陽葵はホルンを持ち直して、深く息を吸った。
けれどその表情にはまだ迷いが残っていた。
「……怖いの。ずっと吹いてきたのに、うまく音が出せないって、ただそれだけで、全部が壊れちゃった気がして」
「壊れちゃいないよ」
俺はギターを膝に置いたまま、言葉を続ける。
「吹けないことがあっても、耳が聴こえなくても、陽葵が音楽を捨ててないなら、壊れてなんかいない」
彼女はしばらく黙って、俯いていた。
でもやがて、顔を上げて小さく笑った。
「……そうだね。じゃあ、壊れてないってことにする」
俺はコードを鳴らした。G、Em、C、D。
この曲の基本の進行。何度も何度も繰り返して、身体に馴染ませてきた。
「リズムは取らなくていい。……感じるだけでいい」
目を閉じた陽葵は、少しずつホルンを構える。
その姿は、高校の頃、吹奏楽部で演奏していたときと、どこか似ていた。
けれどあの頃より、少しだけ大人になっていた。
俺たちは音を合わせた。
陽葵のホルンは、最初はかすれていたけれど、少しずつ芯を取り戻していく。
“吹けない”ことと、“音が出ない”ことは違う。
彼女の中に、音楽はまだ確かに生きていた。
「……いい音になってきたな」
俺がそう呟くと、陽葵は小さく笑った。
「奏の音が、導いてくれるから」
そのとき、俺の心の中で何かが変わった。
これまでは、ただ助けたかった。
でも今は——
“この人と一緒に、音をつくっていきたい”
音楽で手を繋ぎ、音楽で支え合っていく。
そんな関係を、心から望んでしまっていた。
「……この曲、名前つけようか」
「え?」
「ふたりで作ってるんだから、タイトル、決めよう」
陽葵はしばらく考えて、そして言った。
「“届かない音”ってどう?」
「……ネガティブじゃない?」
「ううん。これは、“届かないと思ってた音”って意味。
でも実は、誰かには届いてたかもしれない。そんなふうにしたいの」
俺はゆっくりうなずいた。
「……“届かない音”。悪くないな。気に入った」
静かな練習室の中。
俺たちは、まだ未完成の曲を少しだけ完成に近づけていた。
誰にも知られない、ふたりだけの音が、そこには確かに鳴っていた。




