第41話 ノートの中の五線譜
大学の講義が終わった午後、俺はひとりで図書館にいた。
静かな空間。少し重たい空気。
本棚の隙間から差し込む日差しが、時間の流れをやわらかく告げてくる。
俺は楽譜コーナーの隅で、一冊の本を開いていた。
『現代音楽と聴覚障害者』——妙に専門的な書籍だった。
「奏くん、またそんな難しそうなの読んで……」
声をかけてきたのは、彩瀬だった。
軽音サークルの同期。ピアノ担当で、少しお姉さん気質の彼女。
「珍しいね、図書館なんて」
「たまにはな。……っていうか、彩瀬こそ」
「私は資料集め。来月のライブでやる新曲、ちょっとアレンジ加えたくて」
そう言いながら、彼女は俺の隣に腰を下ろした。
「で、その本……もしかして陽葵ちゃんのこと?」
「……まあ、そんなとこ」
俺の答えに、彩瀬は一瞬だけ真剣な表情を見せた。
「奏くんって、ほんと不器用だよね」
「いきなり何だよ」
「だって、まわりくどいじゃん。好きならもっと正直にぶつかればいいのに」
俺は苦笑するしかなかった。
「……簡単じゃないよ、いろいろと」
「うん。……でもさ」
彩瀬は俺のノートに目を落とした。
そこには、書きかけの五線譜。コード進行だけが並んでいた。
「これ、陽葵ちゃんに向けた曲?」
「まだ未完成だけどな」
「……いい曲、書きなよ。あの子の耳には届かなくても、心には届くかもしれないから」
その言葉が、妙に胸に残った。
陽葵の“耳”ではなく、“心”に届く音——
そういう音楽を、俺はまだ知らない。
でも、きっと探せるはずだ。
彼女と出会ったこの大学で。
俺がギターを弾き続ける限り。
*
夜、陽葵の部屋。
テーブルの上に広げたノートの五線譜。
そこには、俺が今日書いたメロディの断片が並んでいた。
「——こんな感じで考えてる」
俺はギターを手にとり、静かに奏でてみせた。
キーはGメジャー。優しくて、でも芯のある音を選んだ。
陽葵は黙って、それを聴いていた。
いや、聴いていたというより、感じ取っていた。
指の動き、空気の震え、音の表情——
彼女はそれらすべてを、五感でつかもうとしていた。
「……きれい」
ぽつりと、彼女が言った。
「ありがとう。まだサビはできてないけどな」
「それでも……この音、あったかい」
陽葵はそっと五線譜に触れる。
そして、まるで祈るように、ペンをとった。
「……ねえ、この一小節、リタルダンドって入れてもいい?」
「いいけど……わかるのか?」
彼女は、少しだけ微笑んだ。
「体が、覚えてる。音の流れ、曲の呼吸、間の使い方……。聴こえなくても、私、まだ音楽できるかもしれない」
その言葉に、胸がぎゅっとなった。
「——やろう、陽葵」
「……え?」
「ふたりで曲を作ろう。今度のライブで、これを披露しよう」
「でも……そんな、私……」
「俺ひとりで作るより、ずっといい音になる。
おまえとなら、ちゃんと“届く”音が作れる気がする」
陽葵は、口元をそっと手で覆って、俯いた。
震える肩に、感情のすべてが表れていた。
「ありがとう……奏。こんな私に、まだ音を信じさせてくれて……ありがとう」
俺は何も言わず、ただそっと彼女の肩に手を置いた。
この手のぬくもりも、きっと彼女に届いている。
沈黙の中で、ふたりは静かに五線譜を見つめた。
そこには、まだ音符のない未来の旋律が、静かに息を潜めていた。




