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第40話 ノイズと沈黙のあいだで

朝、目覚めたとき、陽葵の姿がなかった。


キッチンにも、リビングにも、風呂場にも——どこにもいない。


 


一瞬、嫌な予感が背中を走る。


けれど、次の瞬間、玄関のドアが静かに開いた。


 


「……あ、起きてた?」


そこにいたのは、外気をまとった陽葵だった。


手には、紙袋。コンビニのロゴがかすかに見える。


 


「パンとコーヒー。ついでに、カフェラテも買ったよ。砂糖入りと無糖、どっちがいい?」


 


安堵とともに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


「勝手に出歩くなよ」


「ごめん。でも……少し、ひとりで外を歩いてみたかったの」


 


陽葵はゆっくりと靴を脱ぎながら、続けた。


「外の音、ほとんど聞こえなかった。でも……だからこそ、逆に安心できた」


「安心?」


「うん。車の音も、人の声も、風の音も。……何もないと、逆に、心が静かになる。皮肉だけどね」


 


彼女の言葉に、どこか苦笑を浮かべるしかなかった。


たしかに、音楽は彼女にとって生きる糧だった。

でも同時に、音は、彼女を苦しめる原因にもなっていたのかもしれない。


 


「……俺、昨日さ、南乃と話した」


「……そうなんだ」


陽葵は驚いたふうでもなく、少しだけ目を伏せた。


「彼女……すごく、優しいよね。ああいう人って、ずるい」


「ずるい?」


「なんでも見透かすみたいな目をしてる。あの子に見られると、自分の弱さをさらけ出してるみたいで……怖くなる」


 


俺はふと、あの日、南乃が言っていた言葉を思い出す。



「……でも」


陽葵は言った。


「わたし、まだ壊れてない。壊れてないんだから……支えられるんじゃなくて、自分で立ちたい」


 


強い意志を感じた。


かつて、吹奏楽部で誰よりも音楽に真っ直ぐだった彼女が、再び前を向こうとしている。


 


俺はただ、うなずいた。


そして——言葉を飲み込んだ。


彼女が「立ちたい」と言うなら、俺は、傘になるのではなく、風を背にするだけでいい。







「もうすぐ……耳鼻科、行く予定なんだ」


昼食後、陽葵がふいに言った。


「大学病院の紹介状、先生からもらって……検査、精密なの受けるって」


「そうか」


「……怖いけど、行かなきゃって思った。ここで止まったら、音が全部、後戻りしちゃいそうだから」


 


彼女の言葉は、まるで曇り空の隙間から射す陽光のようだった。


 


「ねえ、奏」


「ん?」


「もし、ほんとうに、音が戻らなかったら……私、どうすればいい?」


 


その問いに、即答はできなかった。


でも、俺はゆっくりと、言葉を選んだ。


 


「——新しく作ればいい」


 


「え……?」


 


「聴こえなくても、作れる音がある。おまえの中にある音を、俺が手伝ってかたちにする。……曲でも、詩でも、言葉でも」


 


「そんなの……できるの?」


 


「できるさ。俺たちはバンドやってるんだぜ? 一人で音を出すんじゃない。重ねていくんだ、誰かと」


 


陽葵は小さく笑った。


それは今まででいちばん、肩の力が抜けた笑みだった。


 


「ありがと、奏。……ううん、ごめん」


「なんで謝る?」


「だって、弱音ばかり言って、寄りかかってばかりで……本当は、誰かの音に頼りたくなんてなかったのに」


 


「違うよ、陽葵」


俺は彼女の肩に手を置いた。


「頼るのは、弱さじゃない。……孤独に耐えきれずに、誰かを拒むことの方が、きっと怖い」


 


一瞬、彼女の目が潤んだ。


けれどすぐに、彼女はそれを誤魔化すように背を向け、キッチンの方へ向かった。


 


「じゃあ、コーヒー淹れようかな。さっきのやつ、まだ残ってるし」


 


その背中が、ほんの少しだけ、軽やかになっている気がした。


 


彼女の耳にはもう、あの頃の音は届かないのかもしれない。

けれど、彼女の心の奥には、まだ旋律が残っている。


 


それを信じられる限り、俺は隣にいる。

この静寂の中に、二人だけの音を探しながら。

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