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第4話 音のない家

陽葵の家を出たあと、僕はどこか、音のない世界に迷い込んだような気分だった。


自販機のコイン投入音も、電車のアナウンスも、ギターの弦を鳴らす指先の感覚さえ、何もかもがぼやけていた。


もしかすると、それは彼女が感じていた“難聴”の世界に、少しだけ触れてしまったからかもしれない。


 


自分の家に戻ったのは、日曜の夕方。


部屋に入ってギターを取り出してみたけれど、弾けなかった。


指が止まる。歌詞が出てこない。


あの日、彼女が見せた笑顔の“続き”が、どうしても頭から離れなくて。


 


***


 


翌日のキャンパスは、いつも通りだった。


明るく、適度にうるさくて、他人のテンションが少しだけ目障りな、そんな月曜日。


軽音サークルのチャットでは、次回のスタジオ練習の調整が始まっていたけれど、正直、気が乗らなかった。


それでも返信だけはする。

「大丈夫」「参加できる」

そういう“無難な言葉”を選ぶのには、慣れていた。


 


「おーい、奏!」


背後から飛んできたのは、聞き慣れたテンションの高い声。


振り返ると、サークル仲間であり、唯一の“男友達”でもある藤瀬が手を振っていた。


 


「お前さ、昨日いなかったろ? 土曜のスタジオ、来れなかった?」


「急用で。ごめん」


「いや別に怒ってないけどさ。珍しいなって思って。配信も止まってたし。なんかあった?」


「……ちょっとな」


「ふーん。ま、気が向いたら話せよ。てか次のライブ、例の“あの曲”でいくって話になってるから」


「あの曲?」


「お前が、高校の時に作ったやつ。ホルンと一緒にやってたっていう。たしか、“霧の午後”?」


 


——それは、陽葵と最後に合わせた、あの曲だった。


彼女のホルンと、僕のギターが、初めて「重なった」記憶。


それを引っ張り出された瞬間、胸の奥に冷たい何かが流れ込んできた。


 


「……俺、それ、やらない方がいいかもしれない」


「え?」


「その曲は、ちょっと……今はやめとく」


「そっか。なんか……あったな?」


「……あったよ」


 


藤瀬はそれ以上、何も聞かなかった。


こういうときの彼は、不思議と空気が読める。

普段はアホみたいに明るいくせに、妙に“線を引く”のがうまい。


 


***


 


午後の講義を終えて、帰り支度をしていたときだった。


僕の机に、小さな紙袋が置かれていた。


中身は、ギターピックと、小さな栞。

そして——折りたたまれた便箋。


そこには、綺麗な文字でこう書かれていた。


「こないだの配信、途中で終わっちゃったから、ちょっと心配になって。

もしよかったら、今度、一緒にスタジオ入ってくれないかな。

――倉本凛音」


 


僕は、知らない間に誰かに見られていたらしい。


 


倉本凛音。

同じ講義で何度か席が近かったけれど、会話をしたのは数えるほどだった。


けれど、彼女の声は、妙に耳に残っている。


静かで、まっすぐで、どこか冷たさを含んでいて。

まるで、真冬の朝に差し込む光みたいだった。


 


陽葵の“閉じた窓”と、

凛音の“差し出された扉”が、今、僕の目の前にある。


 


この選択が、きっと少しずつ、音を変えていく。


放課後の教室には、思ったよりも長く光が差していた。


窓辺に腰かけて便箋を見つめていると、不意に、風がそれをさらっていった。


紙はふわりと宙を舞い、僕の靴先に落ちた。


 


拾い上げると、字の筆圧が思っていたよりも強かったことに気づく。


彼女、倉本凛音は、意外と“迷い”がない人間なのかもしれない。

それとも——誰かに迷う余地を与えないくらい、自分を確かに保っているのか。


 


僕はそのまま、ふらりと構内の小さな音楽室へ向かった。


軽音サークルとは別に、一般学生にも開放されている部屋だ。


入ってすぐの壁際には、年季の入ったアップライトピアノ。


奥には、誰かが置き忘れた譜面と、使い古された譜面台。


無人のその空間は、どこか落ち着く。

音がまだ“何者にも触れていない”静寂だからだ。


 


ポケットからギターピックを取り出し、ポケットにしまう。


そして、スマホを開いてメッセージを打つ。


【了解。今度スタジオ、付き合うよ】

送信先:倉本凛音


 


そうやって、陽葵とは違う“もうひとつの音”に向き合おうとしていた時だった。


 


スマホの通知が震え、画面に表示された名前に、僕の呼吸が止まる。


——東雲陽葵。


その文字列だけで、頭の中にあの表情が蘇る。


あの日、彼女の家で僕に見せた、頼ることに慣れていない人間特有の、脆く、痛々しい目。


 


通知の内容は、短い一文だった。


【少し、話せる?】


 


***


 


夕方、大学近くの喫茶店。


カップの中のカフェオレがぬるくなっていた。

それでも、彼女は一口も口をつけようとしなかった。


そして僕は、それを指摘する言葉を、持っていなかった。


 


「……ごめんね。急に」


「大丈夫。何かあった?」


「……うん。っていうか、なんか、話しておかないと、って思っただけ」


 


陽葵の声は、以前より少し、かすれているように感じた。


きっと気のせいじゃない。


言葉を選ぶように喉を動かして、彼女はぽつりと言った。


 


「今日、病院に行ってきたの。耳、またちょっと悪くなってて」


 


言葉の意味がすぐに理解できなかった。


“また”という単語の重さが、理解を遅らせた。


 


「前に熱出したとき……そのときに、一時的に聞こえづらくなったって言ってたろ?」


「うん。でも、今もたまに聞こえにくいの。特に、音が多い場所とか。あと、疲れてるときとか……人の声が、壁越しに聞こえるみたいになる」


「それって……」


「うん、突発性難聴って言われた。ストレス性のものもあるって。でもね、ちゃんと検査受けてみたら、右耳の聴力が一部落ちてた」


 


陽葵は、表情を変えずにそれを言った。


泣きもせず、笑いもせず、ただ“報告する”ように。


だからこそ、僕は少し、怖くなった。


彼女が、感情をしまいすぎて、何も感じなくなってしまうんじゃないかと。


 


「家のことも、部活のことも、もうどうでもいいって思ってた」


「……」


「でも、本当に“どうでもいい”わけじゃないの。ただ、何かに期待するのが、もう疲れちゃっただけで」


 


このとき、ようやく僕は気づいた。


彼女の中には、誰にも気づかれないまま蓄積された「ノイズ」がずっと鳴っていたのだ。


大音量で、耳の奥を殴るように。


それに気づかなかった自分が、何より悔しかった。


 


「……ねえ」


「うん?」


「私、今すぐには変われないと思う。でも、もしそれでも……また、誰かと音楽やれたらって思ったとき、そばにいてくれる?」


 


陽葵がそう言ったとき、カフェのBGMがふと止んだ。


その瞬間、すべての音が“無音”に切り替わったかのようだった。


でも——


彼女の言葉だけが、はっきりと、僕の胸に届いていた。


 


「当たり前だろ」


「……ありがとう」


 


言葉はそれだけだった。


けれど、その瞬間、少しだけ——窓が開いた気がした。

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