第39話 きみの声、耳じゃなくても聞こえるなら
「おまえ、最近……ちょっと優しくなったよな」
そう言ったのは、軽音サークルのドラマー、柴田だ。
スタジオ練習が終わった直後、スティックを手にしたまま俺に笑いかけてきた。
「そうか?」
「前はもっと、クールっていうか、音楽以外はどうでもいいみたいな顔してたじゃん」
「……それが本性なんだけどな」
「嘘つけ。あの陽葵ちゃんに対する目ぇ、どこの恋愛ドラマだよ」
俺は無言でペットボトルの水をあおった。
ああ、たしかに。
たぶん、昔の俺なら、いちいちこんな風に茶化されるのも面倒で無視してただろう。
「ま、変わるのも悪くねえよ」
柴田が笑いながら、スティックをケースにしまう。
「なあ、月末の対外ライブ、陽葵ちゃん呼ぶ?」
「……本人が来たければ、な」
「そっか。……まあ、無理はさせんなよ。こっちも全力で演るからさ」
俺は曖昧にうなずいて、視線を窓の外へ向けた。
夕暮れの光が、少しずつスタジオの壁に伸びてきていた。
*
翌日、大学の中庭で、ひとりの少女がこちらをじっと見ていた。
「……南乃?」
「やっと気づいた?」
オーバーサイズのパーカー、肩にかけたイヤホンコード、足元の赤いスニーカー。
彼女——南乃 紬は、他人の心の機微にやたらと敏感なやつだった。
「最近、配信やってないじゃん」
「……忙しくてな」
「ふーん」
南乃は芝生に腰を下ろすと、ポケットからおもむろに小さなICレコーダーを取り出した。
「これ、聴いてみる?」
「何?」
「私が作った曲。詞もメロディも、ぜんぶ」
彼女は照れたように言った。
「奏くんが……聴いてくれたら、嬉しいなって」
俺はしばらく迷ったあと、無言でレコーダーを受け取った。
そして再生ボタンを押した。
——流れてきたのは、彼女の、透き通った声だった。
高くも低くもない。
だけど、胸のどこかに染み込んでくる、温度のある音。
「……悪くない」
「ほんと?」
「ああ。……むしろ、おまえ、いつの間にこんなもの作ってたんだ」
「ふふ。言ってなかったっけ? “陽葵ちゃんだけがヒロインじゃない”って」
その言葉に、どこか棘を感じたのは気のせいじゃない。
でも南乃の笑顔は、どこまでも無邪気に見えた。
「ねえ、奏くん」
「……なんだ」
「もしさ、陽葵ちゃんが音楽をやめたとしても——君は、そのままでいられる?」
俺はその問いに、すぐに答えられなかった。
心のどこかで、それを考えることを避けていたからだ。
*
南乃の問いは、まるで心の深部に静かに沈んでいた不安を、そっと掘り起こすようだった。
——もし、陽葵が音楽をやめたら。
——もし、ホルンを吹けなくなったら。
彼女にとって音楽は、居場所であり、表現であり、自己そのものだ。
だが今、その象徴である「音」が、彼女の耳に届かなくなりつつある。
「……答えられないんだね」
南乃がぽつりと呟く。
「それが悪いとは思ってない。……だけどね、そういうとこ、ちゃんと向き合わないと、きっと後で……苦しくなるよ」
彼女の言葉は優しくも、鋭い。
「私、応援してるから。……二人のことも、君のことも。でも、もし……本当に陽葵ちゃんが壊れそうになったときは」
少しだけ、間を置いて。
「私が、代わりに支えるよ」
それは冗談でも脅しでもなく、ただの事実のように、まっすぐに告げられた。
俺は、何も言えなかった。
ただ、その覚悟のような瞳から目を逸らすことしかできなかった。
*
陽葵の部屋に戻ると、彼女は静かに楽譜を眺めていた。
ホルンのパート譜。
大学の吹奏楽部で使われていた、例の、あの曲。
「……まだ、見てたのか」
「うん。でもね、もう聴こえないの。高い音が、特に」
彼女の声は静かだった。
「でも……頭の中には、あるの。不思議だけど、まだ、消えてなくて」
俺はそっと彼女の隣に座った。
「陽葵」
「なに?」
「音が聴こえなくても、おまえは陽葵だ」
彼女は目を見開いた。
「それが、吹奏楽部の陽葵じゃなくても、ホルンの陽葵じゃなくても。……俺の知ってる、おまえは、おまえだよ」
長い沈黙のあと——彼女が、ふっと、微笑んだ。
「……そんなふうに言ってくれるの、奏だけだよ」
俺はその手を握った。
彼女の指先は、まだ微かに震えていたけれど、きっと——前よりは、少しだけ温かかった。
音が消えていくとしても、
言葉にならない想いが残る限り、
俺は、ここにいる。
——きみの耳に、僕の音が届かなくても。




