表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/56

第39話 きみの声、耳じゃなくても聞こえるなら

「おまえ、最近……ちょっと優しくなったよな」


そう言ったのは、軽音サークルのドラマー、柴田だ。

スタジオ練習が終わった直後、スティックを手にしたまま俺に笑いかけてきた。


 


「そうか?」


「前はもっと、クールっていうか、音楽以外はどうでもいいみたいな顔してたじゃん」


「……それが本性なんだけどな」


「嘘つけ。あの陽葵ちゃんに対する目ぇ、どこの恋愛ドラマだよ」


 


俺は無言でペットボトルの水をあおった。


ああ、たしかに。

たぶん、昔の俺なら、いちいちこんな風に茶化されるのも面倒で無視してただろう。


 


「ま、変わるのも悪くねえよ」


柴田が笑いながら、スティックをケースにしまう。


「なあ、月末の対外ライブ、陽葵ちゃん呼ぶ?」


「……本人が来たければ、な」


「そっか。……まあ、無理はさせんなよ。こっちも全力で演るからさ」


 


俺は曖昧にうなずいて、視線を窓の外へ向けた。

夕暮れの光が、少しずつスタジオの壁に伸びてきていた。


 



 


翌日、大学の中庭で、ひとりの少女がこちらをじっと見ていた。


「……南乃?」


「やっと気づいた?」


オーバーサイズのパーカー、肩にかけたイヤホンコード、足元の赤いスニーカー。

彼女——南乃 紬は、他人の心の機微にやたらと敏感なやつだった。


 


「最近、配信やってないじゃん」


「……忙しくてな」


「ふーん」


南乃は芝生に腰を下ろすと、ポケットからおもむろに小さなICレコーダーを取り出した。


「これ、聴いてみる?」


「何?」


「私が作った曲。詞もメロディも、ぜんぶ」


 


彼女は照れたように言った。


「奏くんが……聴いてくれたら、嬉しいなって」


 


俺はしばらく迷ったあと、無言でレコーダーを受け取った。

そして再生ボタンを押した。


 


——流れてきたのは、彼女の、透き通った声だった。


高くも低くもない。

だけど、胸のどこかに染み込んでくる、温度のある音。


 


「……悪くない」


「ほんと?」


「ああ。……むしろ、おまえ、いつの間にこんなもの作ってたんだ」


「ふふ。言ってなかったっけ? “陽葵ちゃんだけがヒロインじゃない”って」


 


その言葉に、どこか棘を感じたのは気のせいじゃない。

でも南乃の笑顔は、どこまでも無邪気に見えた。


 


「ねえ、奏くん」


「……なんだ」


「もしさ、陽葵ちゃんが音楽をやめたとしても——君は、そのままでいられる?」


 


俺はその問いに、すぐに答えられなかった。


心のどこかで、それを考えることを避けていたからだ。







南乃の問いは、まるで心の深部に静かに沈んでいた不安を、そっと掘り起こすようだった。


——もし、陽葵が音楽をやめたら。

——もし、ホルンを吹けなくなったら。


 


彼女にとって音楽は、居場所であり、表現であり、自己そのものだ。

だが今、その象徴である「音」が、彼女の耳に届かなくなりつつある。


 


「……答えられないんだね」


南乃がぽつりと呟く。


「それが悪いとは思ってない。……だけどね、そういうとこ、ちゃんと向き合わないと、きっと後で……苦しくなるよ」


 


彼女の言葉は優しくも、鋭い。


「私、応援してるから。……二人のことも、君のことも。でも、もし……本当に陽葵ちゃんが壊れそうになったときは」


 


少しだけ、間を置いて。


「私が、代わりに支えるよ」


 


それは冗談でも脅しでもなく、ただの事実のように、まっすぐに告げられた。


 


俺は、何も言えなかった。

ただ、その覚悟のような瞳から目を逸らすことしかできなかった。


 



 


陽葵の部屋に戻ると、彼女は静かに楽譜を眺めていた。


ホルンのパート譜。

大学の吹奏楽部で使われていた、例の、あの曲。


 


「……まだ、見てたのか」


「うん。でもね、もう聴こえないの。高い音が、特に」


彼女の声は静かだった。


「でも……頭の中には、あるの。不思議だけど、まだ、消えてなくて」


 


俺はそっと彼女の隣に座った。


 


「陽葵」


「なに?」


「音が聴こえなくても、おまえは陽葵だ」


 


彼女は目を見開いた。


 


「それが、吹奏楽部の陽葵じゃなくても、ホルンの陽葵じゃなくても。……俺の知ってる、おまえは、おまえだよ」


 


長い沈黙のあと——彼女が、ふっと、微笑んだ。


「……そんなふうに言ってくれるの、奏だけだよ」


 


俺はその手を握った。

彼女の指先は、まだ微かに震えていたけれど、きっと——前よりは、少しだけ温かかった。


 


音が消えていくとしても、

言葉にならない想いが残る限り、

俺は、ここにいる。


 


——きみの耳に、僕の音が届かなくても。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ