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第38話 隣にいる、という不確かさ

陽葵は翌朝、目を覚ましてすぐに違和感を覚えた。


リビングに立ちこめる気配。

それは、昨日から泊まっている“彼女”の存在を、改めて思い出させるものだった。


 


昨夜は深くは問わなかった。

でも、だからこそ余計に、胸の内で言葉が引っかかっていた。


 


「私が、君の隣に立つこと——まだ、間に合うと思う?」


あの言葉。


まるで、彼女が“今の関係性”に賭けようとしているみたいで——

まるで、“誰かの隣”という場所が、椅子取りゲームみたいで——


 


私は、目を閉じてから、もう一度しっかりと目を開けた。

ここが、自分のいるべき場所であるために。


 



 


リビングでは、陽葵がコーヒーを入れていた。


真理亜はソファに座り、いつものようなふわっとした笑みを浮かべている。

けれど、それは明らかに“作られた表情”だった。


 


「あ……おはよう、陽葵ちゃん」


「おはようございます」


「昨日、寝られた? 私、いびきとかかいてなかった?」


「いえ、気づきませんでした。……お疲れ様です」


 


表面上は、きっと普通に会話できている。


でも、陽葵の中で何かがわずかに軋んでいた。


真理亜のことを“嫌い”ではない。

むしろ、以前よりは彼女の本質を少し理解できた気もする。


けれど——


 


「……奏、今日ってゼミある?」


「午後から。午前はフリー」


「そう。じゃあ、私、先に大学行ってる」


「ん? どうした、急に」


「……なんとなく。今日は、少し、音を出したい気分」


 


それだけ言って、陽葵は支度を始める。

後ろから真理亜の視線を感じたが、振り返らなかった。


 



 


大学に着いても、彼女の心のざわつきは消えなかった。


吹奏楽部の練習室。

久々に一人でホルンを構える。


何かを振り払うように、ロングトーンから音を出しはじめた。


深く息を吸って、音に変える。

出てきたのは、澄んだ、でも少し震える音。


それでも——音は、確かに響いた。


 


そのとき、背後でドアが開いた。


「……東雲先輩?」


振り向くと、そこには、かつての後輩・美月が立っていた。


「今日、来るって聞いてなかったです」


「……ちょっと、吹きたくなっただけ」


 


美月はしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。


「私、あの日、ちゃんと先輩を止められませんでした。……それがずっと心に残ってて」


「……ありがとう。でも、あれは、私が自分で決めたことだから」


「でも——戻ってきてくれて、よかったです」


 


その言葉は、確かに胸に沁みた。


まだ全部は許されてない。

でも、ひとつの音が、確かに誰かの胸には届いていた。







真理亜は、奏の部屋のベランダに出ていた。


朝の空気はひんやりとしていて、遠くの空がゆっくりと白み始めていた。

空っぽのマグカップを手に、ただ風に髪をなびかせて立っていた。


 


「君は、どうしてそんなに優しいの?」


昨日、陽葵に向けられた奏の態度を思い返しながら、真理亜は小さくつぶやいた。


「私はきっと、その優しさに甘えてしまっただけなのに」


 


それが、“ずるい”ということに、彼女自身がいちばんよく気づいていた。


 



 


奏が真理亜に気づいたのは、しばらく経ってからだった。


「……寒くないのか?」


「ん、ちょっとだけ。頭冷やしたくて」


「何か……話すか?」


「……いいの? 話しても」


「聞くよ。俺にできることなら」


 


真理亜はふと目を細めた。


「……ねえ、奏くん。私、昨日、陽葵ちゃんに言ったの」


「何を?」


「“まだ、間に合うと思う?”って」


 


奏は黙って、彼女を見つめる。

真理亜はその視線から目を逸らさず、つづけた。


 


「本当は——自分でもわかってる。もう間に合わないって。でも、諦める理由が見つけられなかったの」


「……」


「昔の彼、ひどかったんだ。私が音楽やめたのも、そのせい。……誰かを信じるって、こんなに怖いことなんだって思った」


 


彼女の声が少し震えていた。


「だから、奏くんに優しくされたとき、嬉しくて。……怖くなかった。でもね、そうやって逃げるように君の隣に来た私は、やっぱりずるいんだと思う」


 


沈黙の時間が流れる。


 


そして——奏はそっと答えた。


「……ずるくてもいい。人はみんな、どこかで誰かにすがって生きてるもんだろ」


「奏くん……」


「ただ、俺は……真理亜に本当の意味で寄り添う覚悟があるかは、まだわからない。今の俺の想いは——たぶん、別の誰かに向いてる」


 


はっきりと、けれど優しい声音だった。


それが、“拒絶”ではなく、“正直”であることは、真理亜もよくわかっていた。


 


「そっか……ありがとう。ちゃんと聞かせてくれて」


 


彼女は笑った。

今度こそ、少しだけ、素直な笑顔で。


 



 


夕方。

奏は練習を終えた陽葵を迎えに行った。


彼女は言った。


「私、真理亜さんのこと……ちょっとだけ、羨ましいって思ってしまった」


「……なんで?」


「だって、ずっと一緒にいたんでしょ? この部屋で、君と」


 


奏はふっと笑って、陽葵の頭をそっと撫でた。


「でも、今、ここにいるのは——お前だろ」


 


その瞬間。

陽葵の胸の中に、何かが、静かに音を立てて崩れた。


それは、疑いか。嫉妬か。それとも、少しだけ芽生えた信頼だったのか。


自分でも、まだわからない。


けれど確かに、心は動いていた。

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