第38話 隣にいる、という不確かさ
陽葵は翌朝、目を覚ましてすぐに違和感を覚えた。
リビングに立ちこめる気配。
それは、昨日から泊まっている“彼女”の存在を、改めて思い出させるものだった。
昨夜は深くは問わなかった。
でも、だからこそ余計に、胸の内で言葉が引っかかっていた。
「私が、君の隣に立つこと——まだ、間に合うと思う?」
あの言葉。
まるで、彼女が“今の関係性”に賭けようとしているみたいで——
まるで、“誰かの隣”という場所が、椅子取りゲームみたいで——
私は、目を閉じてから、もう一度しっかりと目を開けた。
ここが、自分のいるべき場所であるために。
*
リビングでは、陽葵がコーヒーを入れていた。
真理亜はソファに座り、いつものようなふわっとした笑みを浮かべている。
けれど、それは明らかに“作られた表情”だった。
「あ……おはよう、陽葵ちゃん」
「おはようございます」
「昨日、寝られた? 私、いびきとかかいてなかった?」
「いえ、気づきませんでした。……お疲れ様です」
表面上は、きっと普通に会話できている。
でも、陽葵の中で何かがわずかに軋んでいた。
真理亜のことを“嫌い”ではない。
むしろ、以前よりは彼女の本質を少し理解できた気もする。
けれど——
「……奏、今日ってゼミある?」
「午後から。午前はフリー」
「そう。じゃあ、私、先に大学行ってる」
「ん? どうした、急に」
「……なんとなく。今日は、少し、音を出したい気分」
それだけ言って、陽葵は支度を始める。
後ろから真理亜の視線を感じたが、振り返らなかった。
*
大学に着いても、彼女の心のざわつきは消えなかった。
吹奏楽部の練習室。
久々に一人でホルンを構える。
何かを振り払うように、ロングトーンから音を出しはじめた。
深く息を吸って、音に変える。
出てきたのは、澄んだ、でも少し震える音。
それでも——音は、確かに響いた。
そのとき、背後でドアが開いた。
「……東雲先輩?」
振り向くと、そこには、かつての後輩・美月が立っていた。
「今日、来るって聞いてなかったです」
「……ちょっと、吹きたくなっただけ」
美月はしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
「私、あの日、ちゃんと先輩を止められませんでした。……それがずっと心に残ってて」
「……ありがとう。でも、あれは、私が自分で決めたことだから」
「でも——戻ってきてくれて、よかったです」
その言葉は、確かに胸に沁みた。
まだ全部は許されてない。
でも、ひとつの音が、確かに誰かの胸には届いていた。
*
真理亜は、奏の部屋のベランダに出ていた。
朝の空気はひんやりとしていて、遠くの空がゆっくりと白み始めていた。
空っぽのマグカップを手に、ただ風に髪をなびかせて立っていた。
「君は、どうしてそんなに優しいの?」
昨日、陽葵に向けられた奏の態度を思い返しながら、真理亜は小さくつぶやいた。
「私はきっと、その優しさに甘えてしまっただけなのに」
それが、“ずるい”ということに、彼女自身がいちばんよく気づいていた。
*
奏が真理亜に気づいたのは、しばらく経ってからだった。
「……寒くないのか?」
「ん、ちょっとだけ。頭冷やしたくて」
「何か……話すか?」
「……いいの? 話しても」
「聞くよ。俺にできることなら」
真理亜はふと目を細めた。
「……ねえ、奏くん。私、昨日、陽葵ちゃんに言ったの」
「何を?」
「“まだ、間に合うと思う?”って」
奏は黙って、彼女を見つめる。
真理亜はその視線から目を逸らさず、つづけた。
「本当は——自分でもわかってる。もう間に合わないって。でも、諦める理由が見つけられなかったの」
「……」
「昔の彼、ひどかったんだ。私が音楽やめたのも、そのせい。……誰かを信じるって、こんなに怖いことなんだって思った」
彼女の声が少し震えていた。
「だから、奏くんに優しくされたとき、嬉しくて。……怖くなかった。でもね、そうやって逃げるように君の隣に来た私は、やっぱりずるいんだと思う」
沈黙の時間が流れる。
そして——奏はそっと答えた。
「……ずるくてもいい。人はみんな、どこかで誰かにすがって生きてるもんだろ」
「奏くん……」
「ただ、俺は……真理亜に本当の意味で寄り添う覚悟があるかは、まだわからない。今の俺の想いは——たぶん、別の誰かに向いてる」
はっきりと、けれど優しい声音だった。
それが、“拒絶”ではなく、“正直”であることは、真理亜もよくわかっていた。
「そっか……ありがとう。ちゃんと聞かせてくれて」
彼女は笑った。
今度こそ、少しだけ、素直な笑顔で。
*
夕方。
奏は練習を終えた陽葵を迎えに行った。
彼女は言った。
「私、真理亜さんのこと……ちょっとだけ、羨ましいって思ってしまった」
「……なんで?」
「だって、ずっと一緒にいたんでしょ? この部屋で、君と」
奏はふっと笑って、陽葵の頭をそっと撫でた。
「でも、今、ここにいるのは——お前だろ」
その瞬間。
陽葵の胸の中に、何かが、静かに音を立てて崩れた。
それは、疑いか。嫉妬か。それとも、少しだけ芽生えた信頼だったのか。
自分でも、まだわからない。
けれど確かに、心は動いていた。




