表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/56

第37話 あの部室の扉は、まだ重たいまま

陽葵が、部室に向かったのは曇り空の午後だった。


「ちょっと行ってくる」とだけ言って、玄関で靴を履くその背中は、いつになく静かで、でも凛としていた。


 


俺はそれを、リビングから黙って見送った。


何か声をかけようとしたけど、結局、口には出せなかった。

あれは——彼女自身の“音楽”との対話だったから。


 


俺にできるのは、帰ってきたとき、ちゃんと迎える準備をしておくことだけ。


 




久しぶりに足を踏み入れる「私立明晴大学」音楽棟。

夕方前の静かな廊下は、かすかに金管楽器の音が響いている。


まだ、誰かは吹いているらしい。


でも——


あの部室の扉の前に立った瞬間、心臓の鼓動がうるさくなった。


ノックする。返事はない。

ゆっくりとドアを開けると、数人の後輩たちがいた。


見慣れた顔と、見知らぬ顔。

その中に、かつて私の1年後輩だった美月の姿もあった。


「……東雲先輩?」


「久しぶり」


 


その場の空気が、一瞬で張りつめた。


誰もが何かを言いたそうにして、けれど、口を閉じたままだ。


「少し、だけ。中、入っていい?」


「……どうぞ」


 


ぎこちなく頷いた美月が、席をひとつ空けてくれる。


私はその椅子にそっと座ると、ホルンケースを足元に置いた。

誰も何も言わないけれど、その“無言”がかえって重たく響く。


 


「……あの。いま、部内ってどうなってる?」


沈黙。


やがて、別の後輩が小さな声で言った。


「先輩が辞めてから……正直、雰囲気が最悪です。演奏のときも、空気がバラバラで」


「私がいたときより?」


「……もっと、悪いです」


 


その言葉に、胸が痛んだ。

私がいたことで壊れていたのか。

私がいなくなったから崩れたのか。


そのどちらも——本当なのかもしれない。


 


「ごめん、ね。……私のせいで」


誰かが、小さく首を横に振った。

でも、その誰かは最後まで顔を上げてはくれなかった。


 


この場所は、まだ私を完全には許していない。


でも、それでもいい。

まずは、その現実を知ることから始めよう。


私はホルンケースを開き、楽器を取り出す。

音を出すためじゃない。ただ、ここに“戻ってきた”という証として。


 


私の音は、まだここにいてもいいのだろうか。


その答えを探すには——もう少し時間がかかる気がした。







陽葵が部室にいるあいだ、俺は部屋でひとりギターの弦を張り替えていた。


あいつが戻るまでのあいだに、曲を仕上げておきたかった。

あの日、彼女に伝えると決めた「新しい曲」。

俺なりの、彼女への返事。


 


いつのまにか日も落ちて、部屋が暗くなっていた。


弦を一本ずつ、ゆっくり張り替えながら思う。

彼女の音が、また誰かと重なる日が来るなら——そのときはきっと、俺も、ちゃんと横にいたい。


 


玄関のチャイムが鳴る。

少し早い。陽葵が帰ってきたのかと思ってドアを開けると——


そこに立っていたのは、別の人物だった。


 


「……よっ、久しぶり」


「……真理亜?」


 


そこにいたのは、桐島真理亜だった。


ふわりとしたロングスカートに、風になびく焦げ茶の髪。

けれど、その表情は以前よりずっと痩せていた。


「久しぶり……じゃ、ダメだった?」


「いや、違う。びっくりしただけだ。なんでここに?」


「……ちょっと、逃げてきた。家のことで」


 


言葉の端々から、いつもの“冗談っぽさ”が抜けていた。


「もしかして、泊めてくれって話か?」


「……一晩だけでいいから」


 


俺は少しだけ迷って、けれど結局、ドアを開ける。


「とりあえず入れよ。話はそれからだ」


 


真理亜は、ホッとしたように玄関をまたぐ。


 



 


夜、陽葵が戻ってきた。


玄関を開けて、「……ただいま」と小さくつぶやいた声に、俺は居間から返す。


「おかえり」


「うん。……ただいま戻りました、東雲陽葵、部室より帰還です」


「どうだった?」


「想像より……ずっと、難しかった」


 


彼女はそのまま居間に入ってきて、そこで真理亜の姿を見て、少しだけ目を見開いた。


「……桐島さん?」


「やっほ。邪魔しちゃった?」


 


気まずい沈黙が落ちる。でも、陽葵はあくまで冷静だった。


「私、風呂入ってくるね」


「陽葵」


「大丈夫。なにも言わなくてもわかるから」


 


彼女はそう言って、バスルームのドアを静かに閉めた。


そして真理亜は俺の横に腰を下ろす。


「ねぇ、奏。私……まだ、間に合うと思う?」


「……何がだよ」


「私が、君の隣に立つこと」


 


問いは冗談に似ていた。でも、その瞳だけは本気だった。


あの頃とは違う。

俺たちは今、誰かの“孤独”に向き合いながら、別の道を選ぼうとしている。


誰の音を、誰に響かせるか。

答えはまだ、胸の奥でゆっくりとかたちになりつつある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ