第37話 あの部室の扉は、まだ重たいまま
陽葵が、部室に向かったのは曇り空の午後だった。
「ちょっと行ってくる」とだけ言って、玄関で靴を履くその背中は、いつになく静かで、でも凛としていた。
俺はそれを、リビングから黙って見送った。
何か声をかけようとしたけど、結局、口には出せなかった。
あれは——彼女自身の“音楽”との対話だったから。
俺にできるのは、帰ってきたとき、ちゃんと迎える準備をしておくことだけ。
*
久しぶりに足を踏み入れる「私立明晴大学」音楽棟。
夕方前の静かな廊下は、かすかに金管楽器の音が響いている。
まだ、誰かは吹いているらしい。
でも——
あの部室の扉の前に立った瞬間、心臓の鼓動がうるさくなった。
ノックする。返事はない。
ゆっくりとドアを開けると、数人の後輩たちがいた。
見慣れた顔と、見知らぬ顔。
その中に、かつて私の1年後輩だった美月の姿もあった。
「……東雲先輩?」
「久しぶり」
その場の空気が、一瞬で張りつめた。
誰もが何かを言いたそうにして、けれど、口を閉じたままだ。
「少し、だけ。中、入っていい?」
「……どうぞ」
ぎこちなく頷いた美月が、席をひとつ空けてくれる。
私はその椅子にそっと座ると、ホルンケースを足元に置いた。
誰も何も言わないけれど、その“無言”がかえって重たく響く。
「……あの。いま、部内ってどうなってる?」
沈黙。
やがて、別の後輩が小さな声で言った。
「先輩が辞めてから……正直、雰囲気が最悪です。演奏のときも、空気がバラバラで」
「私がいたときより?」
「……もっと、悪いです」
その言葉に、胸が痛んだ。
私がいたことで壊れていたのか。
私がいなくなったから崩れたのか。
そのどちらも——本当なのかもしれない。
「ごめん、ね。……私のせいで」
誰かが、小さく首を横に振った。
でも、その誰かは最後まで顔を上げてはくれなかった。
この場所は、まだ私を完全には許していない。
でも、それでもいい。
まずは、その現実を知ることから始めよう。
私はホルンケースを開き、楽器を取り出す。
音を出すためじゃない。ただ、ここに“戻ってきた”という証として。
私の音は、まだここにいてもいいのだろうか。
その答えを探すには——もう少し時間がかかる気がした。
*
陽葵が部室にいるあいだ、俺は部屋でひとりギターの弦を張り替えていた。
あいつが戻るまでのあいだに、曲を仕上げておきたかった。
あの日、彼女に伝えると決めた「新しい曲」。
俺なりの、彼女への返事。
いつのまにか日も落ちて、部屋が暗くなっていた。
弦を一本ずつ、ゆっくり張り替えながら思う。
彼女の音が、また誰かと重なる日が来るなら——そのときはきっと、俺も、ちゃんと横にいたい。
玄関のチャイムが鳴る。
少し早い。陽葵が帰ってきたのかと思ってドアを開けると——
そこに立っていたのは、別の人物だった。
「……よっ、久しぶり」
「……真理亜?」
そこにいたのは、桐島真理亜だった。
ふわりとしたロングスカートに、風になびく焦げ茶の髪。
けれど、その表情は以前よりずっと痩せていた。
「久しぶり……じゃ、ダメだった?」
「いや、違う。びっくりしただけだ。なんでここに?」
「……ちょっと、逃げてきた。家のことで」
言葉の端々から、いつもの“冗談っぽさ”が抜けていた。
「もしかして、泊めてくれって話か?」
「……一晩だけでいいから」
俺は少しだけ迷って、けれど結局、ドアを開ける。
「とりあえず入れよ。話はそれからだ」
真理亜は、ホッとしたように玄関をまたぐ。
*
夜、陽葵が戻ってきた。
玄関を開けて、「……ただいま」と小さくつぶやいた声に、俺は居間から返す。
「おかえり」
「うん。……ただいま戻りました、東雲陽葵、部室より帰還です」
「どうだった?」
「想像より……ずっと、難しかった」
彼女はそのまま居間に入ってきて、そこで真理亜の姿を見て、少しだけ目を見開いた。
「……桐島さん?」
「やっほ。邪魔しちゃった?」
気まずい沈黙が落ちる。でも、陽葵はあくまで冷静だった。
「私、風呂入ってくるね」
「陽葵」
「大丈夫。なにも言わなくてもわかるから」
彼女はそう言って、バスルームのドアを静かに閉めた。
そして真理亜は俺の横に腰を下ろす。
「ねぇ、奏。私……まだ、間に合うと思う?」
「……何がだよ」
「私が、君の隣に立つこと」
問いは冗談に似ていた。でも、その瞳だけは本気だった。
あの頃とは違う。
俺たちは今、誰かの“孤独”に向き合いながら、別の道を選ぼうとしている。
誰の音を、誰に響かせるか。
答えはまだ、胸の奥でゆっくりとかたちになりつつある。




