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第36話 薄く、静かに、日常は綻びはじめる

人は、案外すぐに“変化”に慣れる。


たとえば陽葵が、うちに来てホルンを吹くようになった日々。

それは最初、どこかぎこちなくて、緊張に満ちていたけれど、数日も経てばそれが“当たり前”になっていた。


 


「ん……今日、ちょっと調子いいかも」


「昨日より音の入りが自然だった。息の使い方、戻ってきてるな」


 


陽葵は、照れたように笑った。


彼女の音には、まだ不安の影がある。

でもそれ以上に、前へ進もうとする意志の音がある。


 


「——でも、私、また演奏していいのかな」


「どういう意味だ?」


「私、あれだけ吹奏楽部で迷惑かけて……辞めて、勝手に逃げて……」


「誰が迷惑って言った?」


「……皆、何も言わなかった。けど、それがいちばん怖い」


 


沈黙。

俺は、ギターの弦をゆっくりと指で撫でた。


「だったら……もう一度、音で返せばいい」


「音で?」


「謝るより、説くより、言い訳するより——音で伝えるほうが、お前にはきっと合ってる」


 


彼女は、言葉を失ったようにこちらを見ていた。


そして、ゆっくりと頷く。


「……うん。そうかもね」


 


そのとき、スマホが鳴った。

通知を見て、俺は少しだけ眉をひそめる。


「どうしたの?」


「いや、軽音サークルの副部長から。……来週末、学内ライブの打診だ」


「……出るの?」


「迷ってる」


「どうして?」


「——お前が今、前に進もうとしてるのに、俺だけ別の場所で音鳴らすの、なんか違う気がして」


 


彼女はその言葉を聞くと、ほんの一瞬、寂しそうに目を伏せた。


でもすぐに顔を上げて言った。


「出なよ。奏の音、好きだから。私が好きだったのって……ずっとあの音だったから」


 


静かに、けれど確かに。


彼女の言葉が、胸の深い場所に落ちていく。


「……じゃあ、出る。その代わり、聞きに来てくれよ」


「いいの?」


「当たり前だ。お前の席、ちゃんと取っておくから」


 


陽葵は、微笑んだ。


彼女の笑顔に、少しずつ“日常”の光が戻りはじめている。


だけどその裏で、まだ誰にも見せていない、ひとつの影がゆっくりと動きはじめていた。


 


次のページをめくる手のひらには、きっと新しい葛藤が、そっと重ねられていく。







学内ライブの話を受けてから、軽音サークルのスタジオにいる時間が増えた。


久々にバンドで合わせると、やっぱり血が騒ぐ。

スネアが刻むリズムに、ベースが絡み、ギターが重なり、ボーカルで空気を震わせる。


 


「奏、いい感じじゃん。やっぱ配信とは違う?」


「まあな。生はやっぱり、全然違う」


「セトリどうする? 新曲いける?」


「一曲、新しく書いてる途中。間に合えば、初披露してみる」


 


バンド仲間の笑顔に、自然とこっちも笑みがこぼれる。

けれど、その片隅にはいつも、陽葵の存在がいた。


 


部屋に戻ると、彼女は静かにホルンのメンテナンスをしていた。


「ライブの準備、進んでる?」


「ああ、なんとか。……今日、少し曲を書いた。お前を想って、書いたやつ」


 


彼女は指を止めて、そっとこちらを見る。


「……それ、聴ける?」


「ライブ当日にな」


「ひどいな、それ」


「楽しみにしててくれ」


 


静かな時間が流れる。

ふと、彼女のスマホが震えた。LINEの通知音。


陽葵はちらりと見ただけで、すぐに画面を伏せた。


 


「……大丈夫か?」


「吹奏楽部の、後輩。なんか、最近また部内で揉めてるらしい」


「また、って……」


「私が辞めたあと、正直、残された人たちの間で空気が悪くなったの。先輩たちと、後輩たちで、派閥もできて」


「……お前に戻ってきてほしいって声、あるんじゃないのか?」


「どうだろう。私は逃げた人間だから」


 


俺は、ギターをそっと手に取り、静かにCのコードを鳴らす。


「逃げたかどうかなんて、関係ない。問題は、これからどこに向かうかだ」


「……奏」


 


彼女は何かを飲み込むように、目を伏せた。


でも、たしかにその目には、少しの決意が宿っていた。


 


「私、行ってみようかな。部室。……もう一度、ちゃんと見てくる」


「……ああ。俺もついてく」


「それは、ダメ」


「なんでだよ」


「これは……私の問題だから。自分の足で、ちゃんと立ちたい」


 


その言葉に、俺はそれ以上なにも言えなかった。


ただ、彼女の背中に——音にならないエールを送ることしかできなかった。


 


部室に向かうその道は、彼女にとって音楽そのものと向き合う場所になる。

そして、その場所で再び交わされる“音”が、新たな波紋を呼ぶことを、俺はまだ知らなかった。

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