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第35話 音のない日々に、音が戻るとき

「……さつきと再会した?」


陽葵は、その名前を聞いた瞬間、目を見開いた。

驚き、というより——記憶の扉を強引にこじ開けられたような顔だった。


「うん。偶然、構内で会った。……すごく心配してたよ、お前のこと」


 


俺がそう伝えると、陽葵は目を伏せ、膝の上で手を組んだ。


「……あの子には、何も言わずにいなくなっちゃったから」


「わかってる。でも、さつきは怒ってなかった。ただ——あんたを助けたいって、そう言ってた」


 


静かな時間が流れる。


エアコンの音と、遠くで誰かが弾いているピアノの音だけが、部屋の空気を満たしていた。


 


「さつきはね、私が唯一、心から笑えた人だった」


「……そうなんだな」


「でも、あの子と一緒にいると……私、自分が偽物みたいに思えたの」


 


陽葵の言葉には、静かな棘があった。


「さつきって、なんでもできて、誰とでも仲良くて。私の演奏も、いつも褒めてくれたけど……あの子にだけは、絶対に勝てないって、心のどこかでずっと思ってた」


「……勝つ、負けるの問題か?」


「わかってるよ。でも、それでも……そう思っちゃったんだよ」


 


彼女の苦しみは、いつだって孤独と隣り合わせだった。


俺はそんな陽葵の手をそっと取った。


「なあ、陽葵」


「……なに?」


「俺さ……お前のホルン、また聴きたい」


「……聴けないでしょ。私、耳が……」


「耳じゃなくて、“心”で聴くんだよ」


 


彼女が驚いた顔をする。


俺は続ける。


「お前が吹いた音を、俺は隣でギターで受け止める。お前の音がどんなに小さくても、どんなに歪んでも、全部、拾う。だから——もう一度、吹いてみないか?」


 


その言葉に、彼女の瞳がわずかに揺れた。


「私の音……まだ、誰かに届くかな」


「届くよ。俺に。絶対に」


 


しばらく沈黙したあと、陽葵はゆっくりと頷いた。


「……じゃあ、明日、吹いてみる。久しぶりに、ちゃんと」


 


その返事は、たったひとことだったけれど。


それはきっと、彼女にとって、とてつもなく勇気のいる一歩だった。


 


俺は、そっとギターを手に取り、コードを鳴らした。


その音が、彼女の背中を押せるように。


そして、また「ふたりの音楽」が始まるように。







翌日の昼。

陽葵は、薄手のグレーのパーカー姿で、俺の部屋にホルンケースを抱えてやって来た。


 


「……久しぶりに持ったら、少しだけ、手が震えた」


「それでいい。緊張してるってことは、ちゃんと向き合ってる証拠だ」


 


彼女は頷き、ホルンを丁寧に取り出す。

金色のボディが、窓から差し込む陽光を反射して、ほんのわずかに揺らめいた。


 


「調子……出せるかどうか、わからない」


「わからなくていい。出せる音を、ただ出せばいい」


 


彼女は口元にマウスピースを添える。

そして、深く息を吸い——


 


——ひとつの音が、部屋に広がった。


 


それは、完璧な音じゃなかった。

少しだけ揺れていて、ほんの少しだけ、不安定だった。


でも、確かに——そこに“陽葵”がいた。


 


彼女は息を吐ききり、そっとホルンを膝の上に置いた。


「……だめ、だったね」


「いや、すごく、よかった」


「……本気で言ってるの?」


「うん。本気で言ってる」


 


陽葵は目を伏せたまま、首を横に振った。


「私の耳、右側はほとんど聞こえない。ピッチもわからない。周りの音に、合わせられる自信がない」


「それでも……その音は、ちゃんと生きてた」


「……」


「お前の音が、心からのものだったって、俺にはわかる」


 


俺はギターを手に取り、彼女の出したその音に、たったひとつのコードを重ねた。

Eのメジャーコード。それだけ。


 


陽葵は顔を上げて、ぽつりと呟いた。


「この音……すごく、懐かしい」


「一緒に合わせたの、いつぶりだろうな」


「たぶん……高校の定期演奏会、最後の日」


 


そのときのことを、ふと思い出した。


ステージ裏で、陽葵がぎこちなく微笑んで、「また音楽やろうね」って言った。


あの言葉は、ずっと叶わないままだと思ってた。


 


でも、今——


たとえ歪でも、不完全でも、

ふたりの音は、たしかにここに、重なり始めている。


 


「また、吹いてくれる?」


「……うん。明日も、明後日も。……できる限り」


「じゃあ、俺も合わせるよ。お前の音に、ちゃんと寄り添う」


 


陽葵は、小さく笑った。


その笑顔は、どこか泣きそうで、どこか救われたような——


まるで、何かを取り戻す途中の、そんな顔だった。

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