第35話 音のない日々に、音が戻るとき
「……さつきと再会した?」
陽葵は、その名前を聞いた瞬間、目を見開いた。
驚き、というより——記憶の扉を強引にこじ開けられたような顔だった。
「うん。偶然、構内で会った。……すごく心配してたよ、お前のこと」
俺がそう伝えると、陽葵は目を伏せ、膝の上で手を組んだ。
「……あの子には、何も言わずにいなくなっちゃったから」
「わかってる。でも、さつきは怒ってなかった。ただ——あんたを助けたいって、そう言ってた」
静かな時間が流れる。
エアコンの音と、遠くで誰かが弾いているピアノの音だけが、部屋の空気を満たしていた。
「さつきはね、私が唯一、心から笑えた人だった」
「……そうなんだな」
「でも、あの子と一緒にいると……私、自分が偽物みたいに思えたの」
陽葵の言葉には、静かな棘があった。
「さつきって、なんでもできて、誰とでも仲良くて。私の演奏も、いつも褒めてくれたけど……あの子にだけは、絶対に勝てないって、心のどこかでずっと思ってた」
「……勝つ、負けるの問題か?」
「わかってるよ。でも、それでも……そう思っちゃったんだよ」
彼女の苦しみは、いつだって孤独と隣り合わせだった。
俺はそんな陽葵の手をそっと取った。
「なあ、陽葵」
「……なに?」
「俺さ……お前のホルン、また聴きたい」
「……聴けないでしょ。私、耳が……」
「耳じゃなくて、“心”で聴くんだよ」
彼女が驚いた顔をする。
俺は続ける。
「お前が吹いた音を、俺は隣でギターで受け止める。お前の音がどんなに小さくても、どんなに歪んでも、全部、拾う。だから——もう一度、吹いてみないか?」
その言葉に、彼女の瞳がわずかに揺れた。
「私の音……まだ、誰かに届くかな」
「届くよ。俺に。絶対に」
しばらく沈黙したあと、陽葵はゆっくりと頷いた。
「……じゃあ、明日、吹いてみる。久しぶりに、ちゃんと」
その返事は、たったひとことだったけれど。
それはきっと、彼女にとって、とてつもなく勇気のいる一歩だった。
俺は、そっとギターを手に取り、コードを鳴らした。
その音が、彼女の背中を押せるように。
そして、また「ふたりの音楽」が始まるように。
*
翌日の昼。
陽葵は、薄手のグレーのパーカー姿で、俺の部屋にホルンケースを抱えてやって来た。
「……久しぶりに持ったら、少しだけ、手が震えた」
「それでいい。緊張してるってことは、ちゃんと向き合ってる証拠だ」
彼女は頷き、ホルンを丁寧に取り出す。
金色のボディが、窓から差し込む陽光を反射して、ほんのわずかに揺らめいた。
「調子……出せるかどうか、わからない」
「わからなくていい。出せる音を、ただ出せばいい」
彼女は口元にマウスピースを添える。
そして、深く息を吸い——
——ひとつの音が、部屋に広がった。
それは、完璧な音じゃなかった。
少しだけ揺れていて、ほんの少しだけ、不安定だった。
でも、確かに——そこに“陽葵”がいた。
彼女は息を吐ききり、そっとホルンを膝の上に置いた。
「……だめ、だったね」
「いや、すごく、よかった」
「……本気で言ってるの?」
「うん。本気で言ってる」
陽葵は目を伏せたまま、首を横に振った。
「私の耳、右側はほとんど聞こえない。ピッチもわからない。周りの音に、合わせられる自信がない」
「それでも……その音は、ちゃんと生きてた」
「……」
「お前の音が、心からのものだったって、俺にはわかる」
俺はギターを手に取り、彼女の出したその音に、たったひとつのコードを重ねた。
Eのメジャーコード。それだけ。
陽葵は顔を上げて、ぽつりと呟いた。
「この音……すごく、懐かしい」
「一緒に合わせたの、いつぶりだろうな」
「たぶん……高校の定期演奏会、最後の日」
そのときのことを、ふと思い出した。
ステージ裏で、陽葵がぎこちなく微笑んで、「また音楽やろうね」って言った。
あの言葉は、ずっと叶わないままだと思ってた。
でも、今——
たとえ歪でも、不完全でも、
ふたりの音は、たしかにここに、重なり始めている。
「また、吹いてくれる?」
「……うん。明日も、明後日も。……できる限り」
「じゃあ、俺も合わせるよ。お前の音に、ちゃんと寄り添う」
陽葵は、小さく笑った。
その笑顔は、どこか泣きそうで、どこか救われたような——
まるで、何かを取り戻す途中の、そんな顔だった。




