第33話 居場所という名の不在
明晴大学のキャンパスに戻ったのは、約10日ぶりだった。
陽葵はまだ通学を再開していない。俺だけが、元通りの日常に戻る。……戻った“ふり”をしている。
音楽理論の講義を受け、サークル棟のソファに沈み、ギターを鳴らす。
変わらない景色。変わらない喧騒。
でも、そのどこにも“彼女”の声はない。
「おい、奏。なんか顔色わりーな。寝てねぇのか?」
講義終わりに話しかけてきたのは、軽音サークルの先輩・牧野拓海だ。
同じくギター担当で、ゆるい雰囲気とコーヒー好きが特徴の男。俺の数少ない、大学での男友達の一人だ。
「……ちょっとな。眠りが浅い」
「それってさ、“誰か”のこと考えてるからじゃね?」
「……まぁな」
「言わなくてもわかるよ。“例の子”だろ。陽葵ちゃん」
名前を出されると、少し肩が強張った。
彼女が退部したことは、もう噂になっていた。
吹奏楽部の先輩たちの間では、「ああいう子は潰れるのも早い」と、まるで自己責任だと言わんばかりに語られている。
——何も知らないくせに。
「俺さ、見たんだよ。去年の冬。ホールでの練習の帰り、陽葵ちゃん一人で泣いてた。あの時、声かければよかったって今でも思ってる」
「……お前も、彼女の演奏を聴いたことが?」
「ああ。ホルンの音って、正直そんなに目立たないじゃん? でも、彼女の音だけは別だった。……なんていうか、“ちゃんと聴かせる音”だった」
俺は無言で頷いた。
それはきっと、誰よりも俺が知っていることだった。
「そういう子がさ、もう音楽できないって思ってるなら……もったいねぇよな。何より、悲しいよ」
「……俺も、そう思う」
牧野がふっと笑う。
「じゃあ、お前が引っ張り戻してやれよ。“お前の音”で」
俺は言葉を返さなかった。
ただ、その言葉が胸にずっと残り続けた。
放課後、ひとり帰宅する途中。
マンションのドアを開けると、ふわりと甘い匂いがした。
「……おかえり。今日ね、ホットケーキ作ってみた」
エプロン姿の陽葵がキッチンに立っていた。
フライパンを両手で握って、なんだか不安げにこっちを見ている。
「焼き加減、ちょっと難しかったけど……うまくいった、かな?」
俺はその一枚を口に運んだ。
ふわっとしていて、でも真ん中だけ少し焦げていた。
「……悪くない」
「う、うそ……ぜったい焦げたって思った……!」
「いや、焦げてるけど、それも味のうち」
「ひどっ!」
陽葵が笑った。
その笑顔が、たしかに“ここ”を居場所にしていることを教えてくれた。
でも同時に、彼女の本来の“居場所”が、まだ戻ってきていないことも、俺はわかっていた。
だから——俺は決めた。
もう一度、彼女を“音楽”の世界へ連れ戻す。
そのために、俺の音を、言葉を、全部使うつもりだ。
*
「……あのね、奏」
夕食を終え、ふたりで食器を洗っているとき。
陽葵がぽつりと話し始めた。
「昨日、久しぶりに……ホルンのケース、開けてみたの」
俺の手が止まる。
彼女は、ゆっくりとスポンジを動かしながら続けた。
「ちゃんと手入れしてなかったから、ダメになってる部分もあったけど……まだ音、出せた。少しだけだけど」
「……吹いたんだ?」
「うん。……でも、音の高さが、わからなかった。ピッチがずれてるかどうかも、もう、自分じゃ判断できないの」
水音の中で、静かに、でもはっきりと彼女の声が届く。
「音が“見える”って感覚が、昔はあった。響きの輪郭が、耳じゃなくて、体で感じ取れてた。でも今は……その輪郭が、全部にじんでる」
「……」
「それがすごく怖くて。だから、閉じたの。またケースごと、押し入れに戻した」
俺は、洗い終えた皿を拭きながら言った。
「……その感覚、消えてないと思う」
「え?」
「陽葵、お前、俺のギターの音……ちゃんと“感じた”って言ったよな。あれって、耳じゃなくて、きっと体で覚えてるってことだろ?」
彼女は黙って頷いた。
「だったら、それを頼ればいい。耳が信用できないなら、他の感覚を鍛えればいい。……お前は、まだ吹けるよ」
「……でも、音を外したらって考えると、怖いの。あの場所で、また誰かに馬鹿にされるのが怖い」
俺は、彼女の手からスポンジを取った。
「だったらまず、俺の前で吹いてみろ。俺が一番近くで聴いてる」
「……」
「今さら、音外したくらいで幻滅しねぇよ。……どんな音でも、お前が出すなら、それで十分だ」
その夜、彼女はホルンを押し入れから取り出した。
床に座って、ケースの蓋を開けるその手は、震えていた。
でも、その震えの先にあるのは、たぶん——希望だった。
「じゃあ……吹くね。失敗しても、笑わないでよ?」
「俺は、笑わない。絶対に」
彼女がマウスピースを唇にあてる。
深く息を吸い込み、息を吐く。
——その音は、たしかに震えていた。
震えて、揺れて、不安定で、それでも。
どこかで“陽葵らしさ”が滲んでいた。
音を出し終えたあと、陽葵は静かに、こちらを見た。
「……今の、どうだった?」
俺は、迷わずに言った。
「最高だったよ。泣きそうになった」
「うそ」
「ほんと。……俺、音楽やっててよかったって思った。お前の音、聴けて」
陽葵は、しばらく何も言わなかった。
でもそのあと、小さく息を吸って、言った。
「——もう一回、いい?」
俺は頷いた。
それが、彼女にとって“音楽への帰還”の第一歩になるのなら。
何度だって、聴かせてもらう。
彼女がこの世界に戻ってくる、その日まで。




