第32話 名前のない音を、君に
日曜日の午後。
大学のキャンパスは静かだった。
桜の季節もとっくに終わり、木々の緑が色濃くなってきている。
陽葵はもう退院していた。
自宅には戻らず、一時的に俺の部屋で過ごしている。
……正確には、“隠れている”のかもしれない。
家族との間に和解はなかった。吹奏楽部からも正式に退部した。
そのどれもが彼女の選択だったけれど、それでも、心が痛まないわけがない。
「……音が、また少し遠くなった」
彼女はベッドに座ったまま、小さくつぶやいた。
「昨日より?」
「うん。左耳、特に。声も、音も、ぼやけて聞こえる」
俺は何も言えなかった。
医学的にどうこうできるわけでもない。
励ましの言葉なんて、陳腐すぎて意味を持たない。
でも——
「だったら今日は、“目”で聴いてもらおうか」
「……目で?」
俺は立ち上がり、ギターケースを開いた。
いつものアコースティック。少しだけ弦が緩んでいたので、丁寧にチューニングする。
「この前言ってたろ。『私だけのために、歌って』って」
「うん……」
「だから、今日はそれを、実行する日」
彼女は少し驚いたように目を丸くした。
「……私、ちゃんと聴けるかな?」
「わからない。でも、聴こうとすることはできるだろ?」
それから俺は、いつも配信しているように部屋の照明を少し落とし、スマホもオフにして、彼女だけに向けてギターを構えた。
「タイトルはまだない。たぶん、名前をつけたら壊れてしまいそうな気がして」
「そんな曲、あるの?」
「あるよ。ずっと前から、あった。でも、誰にも聴かせたことなかった」
彼女が黙って頷いた。
俺は深く息を吸い、そして——弦を鳴らした。
静かな、優しい音。
春でも、夏でもない、季節の狭間みたいな旋律だった。
歌詞はなかった。
でも、彼女の瞳が、ちゃんと“聴いている”のを、俺は感じた。
たった数分の演奏が終わる頃、陽葵の目には涙が溜まっていた。
何も言わず、ただ拍手を送ってくれる。
音が届いたかどうか、それはわからない。
けど——
彼女の心には、確かに、何かが響いたんだと、そう信じている。
その夜、陽葵は小さな声で言った。
「……その曲、私が名前をつけてもいい?」
「もちろん」
「……じゃあ、『君の耳に、僕の音が届くなら』」
胸の奥が、熱くなる。
この物語が、ここから“始まった”気がした。
*
「……もう一回、聴かせてほしい」
ギターの音が余韻を残す中で、陽葵が言った。
その声は震えていて、掠れていて、それでも真っ直ぐだった。
「……本当に聞こえたのか?」
俺は冗談混じりにそう返したが、すぐに後悔した。
彼女は、笑わなかった。
代わりに、静かに、けれど真剣に、俺の目を見つめてきた。
「……音のすべてが聞こえたわけじゃない。言葉も、旋律も、一部は抜け落ちてた。でもね——」
彼女は、胸に手をあてた。
「心が、ちゃんと震えた。目を閉じてても、感じた。あれは、間違いなく奏の音だった」
俺は、何も言えなかった。
ただ、ギターを抱え直して、再び静かに奏ではじめる。
今度は、彼女の手を取りながら。
陽葵は目を閉じた。音が聞こえるかどうかより、感じることに集中しているようだった。
そして——最後の音が消えたあと。
彼女はぽつりと、こう言った。
「——私、吹奏楽をやめてよかったのかもしれない」
「……それはまだ、早すぎる結論じゃないか?」
俺の問いに、彼女は首を振った。
「違うの。吹奏楽が嫌いになったわけじゃない。でも……“あの場所”が、私を壊してたんだって、今日、気づいた」
「……」
「今は、まだ音が怖い。でも、今日みたいな音なら……もう一度、信じてみてもいいって思えた」
俺は、彼女の手をぎゅっと握る。
「その時が来たら、また始めればいいさ。今は、何も急がなくていい」
「……うん。でも、その時、隣にいてくれる?」
「もちろん。俺が一番最初の観客になるよ」
彼女は、ふっと微笑んだ。
その顔はどこか寂しげで、でも、確かに“前”を向いていた。
——たぶん、音を完全に失う日が来るかもしれない。
けれど彼女は、もう「無音」に怯えるだけじゃなくなった。
それはきっと、今日という日が“音楽との再会の日”になったからだ。
その夜、陽葵は眠れずにいた。
ベッドの中で、俺の手を握ったまま、ぽつりと言った。
「奏。私、音が全部聞こえなくなっても——あなたの声だけは、覚えていたい」
「じゃあ、毎日歌ってやるよ。うざいくらい」
「……うざいのは今に始まったことじゃないけどね」
俺たちは、微かに笑った。
この静寂の中に、たしかな温度があった。
“音”が消えていく中でも、“想い”だけは残ると、そう信じられた夜だった。




