第31話 選ばなければ、何も守れない
病室の窓際、椅子に腰かけていると、朝の光が差し込んできた。
陽葵はまだ眠っている。昨日より少し顔色はよくなっていたけれど、それでも表情には疲れがにじんでいた。
俺は窓の外を眺めながら、指でギターの弦の動きを思い出していた。音は鳴っていない。けれど、頭の中ではコードが鳴っていた。
——音楽ってなんだろうな。
彼女が音を失っていく一方で、俺は音でしか自分を保てなかった。
皮肉だよな、と思う。けど、それでも——彼女が聴こえないなら、代わりに俺が伝えるしかない。
「……奏」
陽葵のかすれた声に振り向くと、彼女が目を覚ましていた。
「おはよう」
「うん、おはよう……」
彼女の声には、わずかな緊張が混ざっていた。
「ねえ、奏。ちょっと……お願いがあるの」
「なんでも言って」
「……転部、考えてるの。吹奏楽部、もう……限界かもしれない」
しばらく言葉が出なかった。
それは、陽葵にとってきっと“夢”を捨てることだったからだ。
中学、高校、そして今まで——彼女が積み上げてきた時間。そこから目を背けることになる。
でも。
でも、それでも。
「陽葵がそうしたいなら、俺は応援する」
彼女はゆっくり瞬きをして、そしてまた微笑んだ。
「ありがとう……でもね、まだ答えは出てないの」
「……そっか」
「でも、こうやって、音楽じゃないところで音を感じることができるって、初めて思った」
彼女の視線は俺の手元にあった。昨日、彼女の手を握ったときのことを、覚えていてくれたのだろう。
「吹奏楽じゃなくても、音楽って続けられるのかな」
俺は笑って答えた。
「続けられるよ。だって俺たち、別に楽器がすべてじゃないだろ?」
陽葵が、小さく笑った。
その笑顔は、昨日よりも、少しだけ強かった。
そして、扉がノックされた。
「失礼します。陽葵さん、ご面会の方です」
看護師に続いて入ってきたのは、一人の女性。
細身のスーツに、鋭い眼差し。どこか陽葵に似ている——と、思ったその瞬間に察した。
「……お母さん」
陽葵の声がかすかに震えた。
その女性は無言のまま、陽葵を見つめていた。無表情。だが、視線には怒りとも焦りともつかぬ何かが宿っている。
「失礼ですけど、あなたは……?」
俺が尋ねると、彼女は俺に目もくれず、ただ一言だけ言った。
「少し、話をさせていただけますか。家族だけで」
——重たい空気が流れた。
陽葵の手が、俺のシャツの裾を掴んでいた。
行かないで、とその手が言っていた。
俺は黙って頷いた。
「……廊下で待ってる」
扉の向こうに出ると、俺の中で確かな感情が燃え始めていた。
——このままじゃ、ダメだ。
陽葵は、いま、自分の人生を“選び直そう”としている。
誰かの期待じゃなくて、誰かの命令でもなくて。
自分で。
——その瞬間が、彼女の音楽のはじまりになるのかもしれない。
*
病室のドアに背を預け、俺は深く息を吐いた。
聞こえてくる声はない。扉の内側では、陽葵とその母親が向き合っている。
……本当なら、俺が割って入ってやりたいくらいだった。
だけど——今だけは、彼女に“選ばせてあげたかった”。
誰かに決められる人生じゃなく、自分で決める人生を。
それを、たとえ苦しくても、見届けたかった。
数分後、ドアが開いた。
そして、母親が無言のまま出てきた。
その横顔は、冷たく、そしてどこか……諦めたような影が差していた。
何か言おうとした俺を無視し、そのまま廊下の向こうに消えていった。
病室をのぞくと、陽葵はベッドに座り、うつむいていた。
「……大丈夫か?」
そう聞くと、彼女はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「……“好きにしなさい”って言われたの」
その言葉の裏にあるのが、応援じゃないことはわかっていた。
“勝手にしろ”と、突き放されたのだろう。
だけど——それでも。
「よかったな」
そう、俺は言った。
驚いたように陽葵が顔を上げる。
「……なんで、そう言えるの?」
「だって、それってつまり……陽葵が、ようやく自分の道を選べるってことだから」
彼女は目を見開いて、それから——ふ、と笑った。
涙が、こぼれていた。
「……奏って、ほんと、バカみたいにまっすぐだね」
「陽葵がぐるぐる遠回りするなら、俺が真っ直ぐ突っ切って先に行って、道つくってやるよ」
「……それ、バンドマンの台詞?」
「違う。バカの台詞」
彼女はくすりと笑って、また涙を拭った。
そして、ゆっくり俺に向き直って言った。
「ねえ、奏。お願いがあるの」
「なんでも」
「——私だけのために、歌って。今度、私が聞こえなくなる前に」
その言葉は、優しさでも、悲しさでもなくて——“願い”だった。
彼女が、もう一度音を信じようとしてくれている証だった。
「いいよ」
俺は答える。
「君の耳に、俺の音が届くなら——何度でも」
それが、始まりだったのかもしれない。
彼女の“音楽”と、俺の“音”が交差する、本当の物語の。




