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第30話 夜の練習室、ふたりだけのセッション

夜の私立明晴大学。講義棟の灯りはすでに落ち、校舎は静寂に包まれていた。


吹奏楽部のある別棟だけが、ほんのりと灯りを残していた。


その一室、旧練習室の奥。


部の備品としてほとんど使われなくなった古いグランドピアノと、譜面台、そして壁に貼られた音響反響パネル。


その狭い空間に、俺と陽葵、ふたりだけがいた。


 


「ここ、まだ鍵開いてるんだな」


 


「うん。前に、こっそり場所だけは確認してたの」


 


陽葵は椅子に腰かけ、譜面を膝に置いたまま、窓の外を見ていた。


外は夜。ほんのわずかに月明かりが差し込み、ピアノの艶やかな表面に映っていた。


 


「……今日は何を演奏するの?」


 


俺が尋ねると、彼女はしばらく沈黙した後、目を伏せてから言った。


 


「“わたしのために”演奏して。——お願い」


 


その言葉は、不思議な響きを持っていた。


まるで、いまにも崩れ落ちそうな足元を、音でつなぎとめようとするかのような、か細く、それでいて真剣な願い。


 


俺はギターをケースから取り出し、チューニングもそこそこに、弦を鳴らす。


コードはG。シンプルで、穏やかな和音。


そのまま、即興的にメロディを紡ぐ。


 


——俺の音を、彼女に届けるために。


 


陽葵は、ピアノの前にそっと立ち上がる。ゆっくりと蓋を開き、鍵盤に指を置いた。


そして、俺のコードにそっと合わせるように、和音を乗せてくる。


 


最初は慎重だった。


けれど、数分もすれば、音の波は自然とひとつになっていた。


俺のギターと、彼女のピアノ。


ふたつの音が、重なり、対話し、呼吸する。


 


——ああ、やっぱり。


 


彼女の音は、まだ失われていない。


難聴になったと聞いたとき、本当は少しだけ、演奏がもうできないんじゃないかと怯えた自分がいた。


けれど、今の彼女は確かに“聴いて”いた。心で、音を受け取っていた。


 


「……ねぇ、奏」


 


演奏の合間、ふと陽葵が口を開いた。


 


「本当に、私が音を失っても、隣にいてくれる?」


 


俺は答えなかった。いや、答えられなかった。


その問いは、重すぎる。


けれど、それでも——


 


俺はギターを置き、彼女の隣に座り、まっすぐに目を見る。


 


「……音を失っても、陽葵は陽葵だろ」


 


「……それだけじゃ、怖いの」


 


「じゃあ、俺が怖くなくなるまで、一緒にいるよ」


 


静かに、彼女の肩が揺れる。泣いているのか、笑っているのかは分からなかった。


でも、その姿はどこか、少しだけ軽くなったように見えた。


 


——この夜、ふたりで奏でた音が、

誰にも聞かれないまま、確かにそこにあった。


それで十分だった。



翌朝——。


スマホの通知音で目が覚めた。


時刻は午前6時を少し過ぎたところ。


通知の中に、見慣れた名前があった。


「陽葵さんが、倒れました。いま病院にいます——」


送信者は、吹奏楽部の後輩だった。俺と陽葵の接点を、数少ないながら知っている人物。


 


すぐに支度をし、自転車を飛ばして最寄りの総合病院へ向かった。


幸い、距離はそこまで遠くない。けれど、道中、心臓の音がやけに大きく聞こえて、何度も立ち止まりそうになった。


 


病院のロビーには、彼女の姿はなかった。


受付で名前を告げ、面会許可をもらい、4階の病室へ向かう。


廊下を歩くたび、靴音だけが無駄に響いた。


 


そして、病室の前に立つ。


深く息を吸い、ノックもせずにそっと扉を開けた。


 


——そこには、ベッドに横たわる陽葵の姿があった。


点滴に繋がれ、血色の悪い顔。けれど目はうっすらと開いていた。


 


「奏……?」


 


「……ああ。来たよ」


 


俺の声に、彼女は小さく目を細める。


その表情に、言いようのない安心と、痛々しさが混ざっていた。


 


「ごめん、昨日……無理、したんだと思う。久しぶりに……楽しくて」


 


「いいよ、謝んなくて」


 


陽葵の枕元の机に、メモ用紙とペンが置かれていた。


彼女はゆっくりと手を伸ばし、そこに字を書いた。


——“耳が、また悪くなったかも。”


 


その文字を見た瞬間、喉の奥がきゅっと締まった。


“また”という言葉が怖かった。


回復しかけていた聴力が、さらに遠のいた可能性を意味していたからだ。


 


「……検査結果、まだ出てないけど」


 


そう呟くと、彼女は再びメモを書いた。


——“今度こそ、完全に聴こえなくなったら、どうしよう。”


 


俺は、その紙をそっと奪い取り、くしゃくしゃに丸めた。


 


「それでも、俺はいるから」


 


「……奏」


 


「音が聴こえなくても、陽葵が俺の前から消えなければいい。奏でなくてもいい。聴こえなくてもいい。そばにいる理由が、それだけで十分なんだよ」


 


静かに、彼女の目に涙が溜まる。


ゆっくりと、ぽろりと零れ落ちたその雫は、枕の端をわずかに濡らした。


 


「……ねぇ、奏。もし私が、全部の音を失っても、あなたの声、忘れたくない」


 


「忘れなくていい。俺が毎日、話してやる。毎日、歌ってやる。だから、忘れようとしたって、無理なんだよ」


 


涙を流す彼女の手を、そっと握った。


その手は、細く、冷たく、震えていた。


けれど——確かに、俺の手を握り返してくれた。


 


「ねぇ、奏……死にたいって、思ってたの」


 


彼女の声は震えていた。


でも、それは“助けて”という声だった。


 


俺は静かに、だけどはっきりと、答えた。


 


「なら俺が、生きたいって思わせてやるよ。これからずっと」


 


病室には、音楽はなかった。


でも、心には確かに届いていた。


俺の声が、彼女の胸に届く限り——まだ終わってなんかいない。

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