第3話 消える人、残る音
「陽葵? ああ、最近見ないかもな」
それが、吹奏楽部の先輩が口にした最初の反応だった。
講義後、偶然すれ違ったのは、陽葵と同じホルンパートの女子先輩。
顔見知りではないが、名前くらいは知っている。
「ていうか、あの子ちょっと前から休みがちだったし。まあ、色々あるっしょ」
その言葉には、どこか“関わらないほうがいい”というニュアンスが含まれていた。
深くは聞けなかった。
けれど、確信するには十分だった。
——何か、起きている。
***
「最近、陽葵ちゃん見ねぇな。……付き合ってんの?」
昼休み、サークル室でギターを調整していると、ベース担当の北野が茶化してきた。
「いや、そういう関係じゃない」
「マジか。高校の時からの知り合いなんだろ?」
「ただの部活仲間。そこまで親しくなかった」
「ふーん。でも最近、よく話してたじゃん?」
何気ない会話なのに、どうしてだろう。
北野の“ふーん”という一言が、急にノイズのように耳に刺さった。
「お前さ、最近ちょっと変だぞ」
横で電子ドラムを叩いていた藤瀬が、スティックを止めてこちらを見る。
「配信もなんか……前みたいな“温度”が感じられないっつーか」
「そうか?」
「うん。あと、音が変わった」
「……変わった?」
「良くも悪くも、“迷い”が混じってる。いや、わかんねーけどな。俺、ド素人だし」
藤瀬は笑いながら言ったが、その言葉は妙に胸に残った。
配信で歌う曲が、どれも中途半端に聞こえていた。
コードも旋律も、過去のものをなぞっているだけで、今の自分から出てくる音じゃない。
——それは、陽葵が大学に来なくなってからだ。
***
ある日、校内掲示板に“吹奏楽部・定期演奏会の出演者変更”が張り出された。
ホルンパートの名前が一部、別の学生に差し替えられていた。
陽葵の名前は、なかった。
その張り紙の前で、しばらく立ち尽くしていた。
この時点でもう、「彼女はしばらく戻ってこないのかもしれない」と思った。
でもそれと同時に、
なぜ、誰も彼女のことを話題にしないのかが、怖かった。
「ねえ、何か知ってる?」
ふいに、背後から声をかけられる。
振り向くと、見覚えのない女子学生が立っていた。
ショートカットで、メガネ。落ち着いた服装。
そして、どこか“見透かすような”瞳。
「えっと……」
「ごめんね。驚かせたならごめん。私、吹奏楽部のパートリーダーの一人。クラリネットの初瀬です」
「ああ……」
「最近、陽葵のことを気にしてるみたいだったから」
彼女は、こちらを試すように静かに言った。
「君、彼女と仲がいいの?」
「……高校が一緒だっただけ。でも、気になってて」
「なら、忠告しておくね」
彼女の声が、少しだけ低くなる。
「陽葵に深入りしないほうがいいよ。彼女のこと、ちゃんと知ってる人なんて、誰もいないから」
そう言って、初瀬は背を向けた。
その背中は、まるで何かを背負っているようだった。
***
陽葵は、どこへ行ったのか。
何が、彼女を消してしまったのか。
それを考えれば考えるほど、
“音楽”という言葉が、どこか遠く感じられる。
なのに、不思議だ。
その日、僕は家に帰るとギターを抱えた。
理由なんてない。ただ、音を鳴らさずにはいられなかった。
音楽が遠くなるほど、
僕は音に、しがみついていた。
土曜の午後、空は曇っていた。
降り出しそうな気配のまま、結局、一滴も雨は落ちてこなかった。
そんな天気の日は、頭が妙に冴えてしまう。
静かすぎると、考えなくてもいいことを考えてしまうから。
「……住所?」
スマホの画面に、かつての部活仲間が送ってきた短いメッセージ。
《陽葵、実家に帰ってるって。ここだよ》
《たぶんしばらく大学来れないっぽい》
その後、何を送っても既読がつかなくなった。
行くべきではない。
そう、何度も思った。
だけど、ギターを抱えている自分が、あまりにも空っぽに思えたから。
演奏も配信も、ただ“音を出してるだけ”になっていたから。
答えがほしかった。
正確には、答えじゃない。
あのホルンの音を、もう一度思い出したかっただけかもしれない。
***
電車を乗り継いで、二時間。
駅からさらにバスで十五分。
“郊外”という言葉がぴったりの住宅街だった。
住所の通りに歩くと、築年数の古そうな二階建てが見えてくる。
カーテンはすべて閉じられていて、玄関前には自転車が二台。
一台はパンクしていて、もう一台のサドルはやたらと低い。
それでも、呼び鈴を押す指は止められなかった。
——ピンポーン。
……応答はない。
もう一度押す。
また、沈黙。
やっぱり、来るべきじゃなかったか。
そう思って帰ろうとした、そのとき。
「誰?」
二階の窓がわずかに開いて、鋭い声が降ってきた。
見上げると、そこにいたのは陽葵だった。
髪は乱れ、肌は青白い。
だけど目だけは、はっきりとこちらを見ていた。
「……俺」
名乗ると、陽葵はほんの一瞬、目を見開いた。
「……帰って。今、会える状態じゃない」
「……話を、聞かせてくれないか?」
「無理」
そう言って、窓が閉じられた。
けれど——
玄関の鍵が、カチリと外される音がした。
***
リビングには誰もいなかった。
テレビもついておらず、まるで時間が止まっているようだった。
陽葵は口を開かなかった。
代わりに、お茶を出してくれた。熱い、緑茶だった。
「……ごめんね。来てもらって」
最初に口を開いたのは陽葵だった。
「本当は、誰にも会いたくなかった。でも、君なら、少しだけ、話してもいいかなって思った」
彼女の声は、とても静かだった。
「お母さんと、妹は出かけてる。すぐ帰ってくるけど……その前に話せること、少しだけ」
「……うん」
「部活は……もう無理かもしれない。あの空気、もう戻れない。音も……正直、怖い」
「なんで?」
「わかんない。ただ、吹こうとすると、耳が痛くなる。熱も出た。病院行ったら、“神経性の一過性難聴”だって。原因はストレスだって言われた」
“耳が、音を拒絶している”
その言葉を、彼女はどこか他人事のように言った。
「ねえ、奏」
陽葵は視線を落としたまま、ぽつりと呟く。
「高校の時、私のことどう思ってた?」
「……」
「怖かった? ウザかった? みんなそう言ってたから、たぶん、当たってると思うけど」
「……そうだな。正直、話しかけにくいとは思ってた」
「だよね」
「でも、今は違う」
その言葉に、彼女はゆっくりこちらを見た。
「君がいなきゃ、あの曲は完成しなかった」
「……」
「陽葵のホルンがあったから、俺の音も意味を持った。高校の時も、今も」
その言葉がどう響いたかは、わからなかった。
でも、彼女の目から、ふっと力が抜けたのだけは、確かだった。
「ねえ、また吹けると思う?」
「思う。……じゃなくて、吹いてほしいって、俺は思ってる」
「無責任だね」
「うん。勝手な願望だ」
そのやり取りで、彼女は少しだけ笑った。
ほんの少し、形だけの微笑みだったけど。
そして数分後、玄関が開く音がした。
「……帰って。もう、来ないほうがいい」
そう言って、彼女は再び冷たい声に戻った。
追い出すような声。でも、明らかに——迷いがあった。
帰り道、僕はずっと思っていた。
どうして、あんな家の中に、ホルンの音色が響いていたんだろうと。




