第29話 沈黙の中の旋律
病院の中庭。空気がひどく冷たく感じたのは、夜風のせいだけじゃなかった。
通話を終えた俺は、スマホをポケットにしまい、少しだけ俯いた。
隣でベンチに座っている陽葵は、母親の容態が落ち着いたことに、どこか安堵した表情を見せていた。
でも、俺の頭の中は、さっきの電話の内容でいっぱいだった。
「……ねぇ、誰から?」
陽葵が、ふと俺に問いかける。
俺は少しだけ言葉を選んだ。いや、言葉を選ばざるを得なかった。
「……お前の元同級生らしい。“山路”ってやつからだった」
「……山路?」
彼女の眉がわずかに動いた。
動揺とは違う。もっと重たい何かが、奥のほうでひっそりと湧き上がる気配。
「“彼女の過去を話したい”って言われた」
陽葵はしばらく沈黙していた。長く、息を飲むような静けさだった。
そしてぽつりと、呟くように言った。
「……あの頃のこと、誰にも話してなかったのに」
それだけで、俺は察した。
山路という男は、ただの元同級生ではない。
彼女の人生の何か大事な部分に深く関わっていた存在なんだ。
「話、聞いてもいいか?」
俺は、あくまで静かに、尋ねた。
陽葵は、遠くの病院の窓を見つめながら答えた。
「私が音楽を、少しだけ嫌いになった時期があるんだ」
——そして、彼女は語り始めた。
「高校2年の冬。私は部内で、あるトラブルに巻き込まれた」
「ホルンパート内で起きた“いじめ”みたいなものだった。……でもね、いじめって、される側よりも周りが見て見ぬふりをすることのほうが、よっぽどしんどい」
「部活って、音を合わせる場所のはずなのに。誰かが誰かを外す空気って、すぐ伝染するの」
「私は毎日、ホルンのベルを前にして“敵の音”を聞いていた。耳に刺さる音。心臓を圧迫するような、無機質で冷たい響き。あれが一番、きつかった」
俺は言葉を挟まなかった。
ただ、胸のどこかがぎゅっと苦しくなるのを感じていた。
「山路くんは、そのとき助けてくれた」
「でも……それがまた、私にとっては辛かったんだ」
「“助けられる”っていうのは、時に“助けが必要なほど弱い”って証拠になるから」
「彼は、誰にでも優しかった。でも——」
彼女は、そこでふと口を閉じた。
何かを言おうとして、でも言えない、そんな顔だった。
そして小さく、諦めたように笑った。
「……彼の優しさは、私を守らなかった。結局、部活を辞めたのは私で、残ったのは彼だったから」
——それが、彼女の沈黙の理由だった。
彼女は、自分の傷を誰にも見せず、音だけを信じてきた。
でもその音すら、時に誰かに否定され、裏切られ、奪われてきた。
「今、彼に会ったら……どんな顔すればいいかわからない」
俺は、そんな彼女の横顔を見つめながら言った。
「じゃあ、俺が一緒に会いに行く」
陽葵は、驚いたようにこちらを見る。
「一人で抱えるなよ、陽葵。あの頃のことも、今のことも、全部まとめて——俺に話してくれ」
沈黙のあと。
彼女は、ゆっくりと目を閉じて、言った。
「……うん。ありがとう」
その「ありがとう」は、小さな音だったけれど、
まるで彼女の心の奥で何かがふっとほどけたように、優しい響きをしていた。
*
再会の場所は、私立明晴大学の近くにある、小さなカフェだった。
カウンター越しに流れるBGMのピアノジャズが、妙に緊張を煽る。
俺の隣で陽葵は、真っ直ぐに視線を前へ向けていた。コートの袖を握る指先が、少し震えていた。
そして、扉が開く。
そこに立っていたのは、俺より少し背が高く、黒縁の眼鏡をかけた男だった。
「久しぶり、東雲。……それに、君が天音奏くんだよね」
山路遥。
彼は人懐っこい笑顔で近づいてきたが、その目はどこか探るようで、警戒しているようにも見えた。
「山路くん……」
陽葵は、まるで昔の記憶をなぞるように、彼の名を呼ぶ。
彼女の声には懐かしさよりも、むしろ遠慮と緊張が混じっていた。
「元気そうで、安心したよ。あのあと、ずっと連絡できなかったから」
「……私のほうこそ。勝手に消えてごめん」
ぎこちない会話だった。けれどその中に、確かに何かがあった。かつて共有していた時間の重さ。それを、今、俺も少しだけ背負おうとしていた。
山路は、俺に一礼し、コーヒーを一口飲んだあと、小さく息を吐いた。
「本題に入るね。君に会いたかったのは、あの事件のこと、もう一度伝えたかったからだ」
——“あの事件”。
その言葉に、陽葵が微かに身を固くする。
「今になって、話す意味があるのかって、すごく悩んだ。でも……俺もずっと、君に謝りたかった」
「……謝る? 何を?」
陽葵の声には、感情が混じっていた。怒りでも、悲しみでもない、ただ真実を知りたいという静かな衝動。
山路は、テーブルの上に指を揃えて置いたまま、ゆっくりと語り出した。
「あの時、いじめてた先輩たちの行動、知ってたんだ」
「でも……俺は見て見ぬふりをした。むしろ“何もしなかった”っていう選択を、自分で肯定しようとしてた」
「たとえば、君の代わりに誰かを責めたら、僕自身が部内で浮くことがわかってたから。……怖かったんだよ」
「だから、俺は“優しく接する”って形で、自分を守った」
陽葵は、その言葉に、目を見開いた。
「それが、君を“守ったつもりで傷つけた”ことになるなんて、当時の俺は考えてなかった」
——つまり、彼の“優しさ”は本物だった。ただ、彼なりの恐怖と保身が、その中にあった。
そして陽葵は、それを見抜いていたのだ。
「……あのとき、山路くんの優しさが、いちばん苦しかった」
「誰かに敵意を向けられるほうが、まだよかった。“何もしてこない優しさ”は、孤独よりも孤独だったから」
——このとき、俺は初めて知った。
彼女が抱えていた本当の痛みは、「傷つけられたこと」よりも、「誰にも守られなかったこと」にあった。
山路は、目を伏せたまま、手をぎゅっと握った。
「ごめん。ほんとうに、ごめん」
沈黙のなか、陽葵は目を閉じて、小さく深呼吸した。
「……もういいよ。たぶん、私も誰かに助けられることを、ずっと拒んでた」
「今、ようやくわかった。私は音楽よりも、“人との関係”が怖かったんだって」
彼女の手が、すっと俺の手に重なった。
温かくて、でも少しだけ震えている手。
山路がそれを見て、少しだけ寂しそうに笑った。
「……奏くん、君はすごいね。ちゃんと向き合ってる」
「そうかな。俺は、ただ隣にいるだけだよ」
そう。俺は、彼女のすべてを救えないかもしれない。
でも、一緒にいられることだけは、決して投げ出したりしない。
——この時、俺は気づいていなかった。
陽葵が“ひとつの嘘”をこの場でついていたことに。
「もういいよ」と彼女は言ったけど、きっとまだ、あの頃の記憶は整理なんてついていない。
それでも——
彼女は“前に進むための嘘”を、自分自身についたんだ。
その強さが、俺には眩しかった。




