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第28話 知らない顔と、知っていた背中

明晴大学、午後三時。


講義を終えてキャンパスを歩いていると、肌に触れる風が夏の訪れを予感させていた。


 


空はよく晴れていて、だけど心は曇りがちだった。


 


「……はあ」


思わず漏れたため息に、誰かが反応する気配はない。


ひとりきりの時間に、俺は慣れている。


でも、最近の俺には、ひとりの時間が……少しだけ、物足りなかった。


 


「陽葵、今日は見学だけって言ってたよな」


今朝、家を出るときはいつもどおりだった。


「音は出なくても、行くだけで違うって……先輩が言ってたんだよ」


ぽつりとそんなことも言っていた。


 


先輩。


あの「部内で一人だけ陽葵に味方してくれている」という人物のことだ。


——山路遥。


名前は聞いたことがある。


俺と同じ学年のはずだが、接点はない。


ただ、陽葵が彼の話をするとき、いつも少しだけ口調が柔らかくなるのが気になっていた。


 


「……ま、信じてみるしかないか」


俺はスマホを取り出し、スケジュールアプリを確認した。


今日は軽音サークルの個人練習日。スタジオは空いている。


ギターを背負って、駅へ向かうバス通りを外れた。


 



 


スタジオで数時間、音を出した。


弦を叩き、コードを探り、歌詞を口の中で繰り返す。


ひとりで音楽と向き合っていると、変な話だが……自分が“まだマシ”な人間だと錯覚できる。


 


「俺は音でしか人を救えない」


そんな大仰な思い込みを、ほんの少しだけ信じてみたくなる。


 


ギターをケースに収めると、スマホが震えた。


陽葵からだった。


ちょっと話せる?


それだけのメッセージ。


でも、普段よりほんの少しだけ「弱い」彼女の文字。


 


俺は即座に「今行く」と返し、スタジオを飛び出した。


 



 


陽葵は、大学の中庭のベンチにいた。


夕日が彼女の髪にかかって、まるで金属のように輝いている。


 


「……ありがと。来てくれて」


「なんかあったか?」


「ううん。……ただ、話したくなっただけ」


 


少し沈黙があって、それから彼女は小さく笑った。


「山路先輩にね、『お前、前より目が死んでないな』って言われたの」


 


「……は?」


「ひどいでしょ。でも、たぶん、褒め言葉だった」


 


彼女は、膝の上に置いたホルンケースを指先で撫でた。


「前はさ、吹けなきゃ意味ないって思ってた。プロになれなきゃ、努力なんか無価値だって。……でも、違うのかもって、最近ちょっと思うの」


 


彼女の目が、俺を見た。


その瞳の奥に、かすかに震える光があった。


 


「ねぇ、奏。……私、怖いよ。戻るの。みんなにまた、“音が出ないやつ”って思われるの、嫌だ」


 


俺は、一拍の間を置いて、それからこう言った。


 


「俺は、今のお前の音が、ちゃんと届いてると思うけどな」


 


「……それ、慰め?」


「違う。俺は、知ってる。お前の音は、昔も今も、ちゃんと“生きてる”」


 


陽葵は、小さく目を見開いて、それからまた視線を逸らした。


「なんで……そんなこと言えるの」


 


「俺が、お前の音に救われたからだよ。あの頃、部活辞めようとしてた俺に、何度も届いてた。お前のホルンの音が」


 


彼女は唇を噛んだ。


俺の言葉を、きっと信じようとしている自分と、疑いたい自分の間で揺れていた。


 


「でも、今は——」


「今の方が、ずっと強い音だ」


俺は言い切った。


 


すると彼女の目に、ぽつりと雫が落ちた。


一瞬、風が吹いて、俺の髪を乱した。


彼女は顔を隠すように手を上げて、そして笑った。


「……泣いてない。泣いてないから」


 


「うん、見てないよ」


 


「うそつけ」


 


「うそだよ」


 


ふたりで、小さな笑い声が漏れた。


 


そのとき、彼女のスマホが震えた。


着信画面に浮かんでいたのは——《母親》。


 


彼女の表情が凍りついた。


手が、すこし震えていた。


「……出る?」


 


陽葵は黙って、首を振った。


そして、そっと電源を切った。


 


「今日は、もう少し、逃げててもいいよね?」


 


「……ああ。逃げ場なら、俺が作る」


 


彼女は、目を伏せて微笑んだ。


 


その横顔は、どこか知らない顔をしていた。


でも俺は、昔から、彼女の背中だけはずっと知っていた。



陽葵は、電源を切ったスマホをそっとポケットにしまった。


さっきまでの微笑みの余韻がまだ顔に残っている。


でもその奥に、どうしようもない疲労がにじんでいた。


 


「ごめん。……せっかくの土曜なのに」


「別にいいよ。今日はギターしか予定なかったし」


「ギター、弾いてたの?」


「うん。ちょっとだけ」


 


「……そっか。聴きたいな、また。あんたの音」


 


「今は?」


「……ううん。今日は、やめとく。泣いちゃうかもしれないから」


 


彼女はそう言って笑った。冗談めかしていたけれど、本音に近いようにも感じた。


俺は「そうか」とだけ返して、言葉を選ぶように沈黙した。


 


空がだんだん赤くなっていく。中庭のベンチの影が、長く地面に伸びている。


日が落ちるのは、こんなに早かったっけと思った。


 


その時、不意に陽葵のスマホが震えた。


切ったはずの電源。いや、切れてなかったのか。


ディスプレイには、知らない番号が表示されていた。


 


彼女は数秒見つめたあと、受話ボタンを押した。


「はい……」


そして、次の瞬間。


 


「——え?」


 


彼女の表情が硬直した。


「いま……なんて……?」


 


俺は横で、ただその様子を見守ることしかできない。


「……うん。わかった。……行く。今から」


 


通話を切ると、彼女はしばらく言葉を失っていた。


そして、俺の方を見ずに言った。


 


「……お母さんが、倒れたって」


 


「……病院?」


「うん。市立の……救急に、運ばれたって」


 


俺はすぐに立ち上がった。


「行くぞ。タクシー、呼ぶ」


 


「え、でも……」


「一人で行くな。お前、まだ震えてる」


 


彼女は小さく唇を噛みしめた。


ほんの一瞬のためらいの後——


 


「……ありがとう」


 


それだけ言って、彼女は俺の隣に立った。


 



 


病院に着いたのは、夜の8時前だった。


すでに受付で名前を伝えてくれていたらしく、すぐに面会許可が下りた。


陽葵の母親は、過労による意識混濁状態とのことだった。


幸い命に別状はないが、数日は安静が必要だという。


 


陽葵は、ベッドの傍らに立っていた。


俺は少し離れて椅子に座り、その様子を見ていた。


 


「……こんなときでも、まだ私に何か言おうとしてくるんだろうかって思った」


唐突に、陽葵が呟いた。


 


「“もう家に帰ってきなさい”とか、“部活やめてちゃんと音楽科に入り直しなさい”とか……そういうことしか言わない人だったから」


 


俺は、なにも言えなかった。


ただ、彼女の言葉に耳を傾けた。


 


「でも、ね」


彼女は、ベッドの母親を見つめながら続けた。


 


「もし目を覚まして、何か責められても……もう私は、前みたいには崩れないかもしれない」


 


「……そうか?」


「うん。だって」


陽葵は、ゆっくりこちらを見た。


 


「今は、私の音を聴いてくれる人がいるから」


 


俺は、言葉を失っていた。


ただ、その言葉が、心に刺さって、沁みて、痛いくらいに残った。


 


彼女は、すこしだけ笑った。


今まで見たどの笑顔よりも、小さくて、それでも確かに強かった。


 


——そしてそのとき、俺のスマホも震えた。


知らない番号からだった。


画面に表示された発信者名は——《山路遥》。


 


俺は一瞬、ためらって、それから応答ボタンを押した。


 


「もしもし、八坂奏くん? 俺、山路っていうんだけど」


低く落ち着いた声だった。年相応というより、少し大人びている。


 


「陽葵、そっちにいるよね。よかった。……それでさ、ちょっと話があるんだ」


 


「話?」


 


「——君に、彼女の“過去”のことを全部、話しておきたいんだ」

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