第28話 知らない顔と、知っていた背中
明晴大学、午後三時。
講義を終えてキャンパスを歩いていると、肌に触れる風が夏の訪れを予感させていた。
空はよく晴れていて、だけど心は曇りがちだった。
「……はあ」
思わず漏れたため息に、誰かが反応する気配はない。
ひとりきりの時間に、俺は慣れている。
でも、最近の俺には、ひとりの時間が……少しだけ、物足りなかった。
「陽葵、今日は見学だけって言ってたよな」
今朝、家を出るときはいつもどおりだった。
「音は出なくても、行くだけで違うって……先輩が言ってたんだよ」
ぽつりとそんなことも言っていた。
先輩。
あの「部内で一人だけ陽葵に味方してくれている」という人物のことだ。
——山路遥。
名前は聞いたことがある。
俺と同じ学年のはずだが、接点はない。
ただ、陽葵が彼の話をするとき、いつも少しだけ口調が柔らかくなるのが気になっていた。
「……ま、信じてみるしかないか」
俺はスマホを取り出し、スケジュールアプリを確認した。
今日は軽音サークルの個人練習日。スタジオは空いている。
ギターを背負って、駅へ向かうバス通りを外れた。
*
スタジオで数時間、音を出した。
弦を叩き、コードを探り、歌詞を口の中で繰り返す。
ひとりで音楽と向き合っていると、変な話だが……自分が“まだマシ”な人間だと錯覚できる。
「俺は音でしか人を救えない」
そんな大仰な思い込みを、ほんの少しだけ信じてみたくなる。
ギターをケースに収めると、スマホが震えた。
陽葵からだった。
ちょっと話せる?
それだけのメッセージ。
でも、普段よりほんの少しだけ「弱い」彼女の文字。
俺は即座に「今行く」と返し、スタジオを飛び出した。
*
陽葵は、大学の中庭のベンチにいた。
夕日が彼女の髪にかかって、まるで金属のように輝いている。
「……ありがと。来てくれて」
「なんかあったか?」
「ううん。……ただ、話したくなっただけ」
少し沈黙があって、それから彼女は小さく笑った。
「山路先輩にね、『お前、前より目が死んでないな』って言われたの」
「……は?」
「ひどいでしょ。でも、たぶん、褒め言葉だった」
彼女は、膝の上に置いたホルンケースを指先で撫でた。
「前はさ、吹けなきゃ意味ないって思ってた。プロになれなきゃ、努力なんか無価値だって。……でも、違うのかもって、最近ちょっと思うの」
彼女の目が、俺を見た。
その瞳の奥に、かすかに震える光があった。
「ねぇ、奏。……私、怖いよ。戻るの。みんなにまた、“音が出ないやつ”って思われるの、嫌だ」
俺は、一拍の間を置いて、それからこう言った。
「俺は、今のお前の音が、ちゃんと届いてると思うけどな」
「……それ、慰め?」
「違う。俺は、知ってる。お前の音は、昔も今も、ちゃんと“生きてる”」
陽葵は、小さく目を見開いて、それからまた視線を逸らした。
「なんで……そんなこと言えるの」
「俺が、お前の音に救われたからだよ。あの頃、部活辞めようとしてた俺に、何度も届いてた。お前のホルンの音が」
彼女は唇を噛んだ。
俺の言葉を、きっと信じようとしている自分と、疑いたい自分の間で揺れていた。
「でも、今は——」
「今の方が、ずっと強い音だ」
俺は言い切った。
すると彼女の目に、ぽつりと雫が落ちた。
一瞬、風が吹いて、俺の髪を乱した。
彼女は顔を隠すように手を上げて、そして笑った。
「……泣いてない。泣いてないから」
「うん、見てないよ」
「うそつけ」
「うそだよ」
ふたりで、小さな笑い声が漏れた。
そのとき、彼女のスマホが震えた。
着信画面に浮かんでいたのは——《母親》。
彼女の表情が凍りついた。
手が、すこし震えていた。
「……出る?」
陽葵は黙って、首を振った。
そして、そっと電源を切った。
「今日は、もう少し、逃げててもいいよね?」
「……ああ。逃げ場なら、俺が作る」
彼女は、目を伏せて微笑んだ。
その横顔は、どこか知らない顔をしていた。
でも俺は、昔から、彼女の背中だけはずっと知っていた。
*
陽葵は、電源を切ったスマホをそっとポケットにしまった。
さっきまでの微笑みの余韻がまだ顔に残っている。
でもその奥に、どうしようもない疲労がにじんでいた。
「ごめん。……せっかくの土曜なのに」
「別にいいよ。今日はギターしか予定なかったし」
「ギター、弾いてたの?」
「うん。ちょっとだけ」
「……そっか。聴きたいな、また。あんたの音」
「今は?」
「……ううん。今日は、やめとく。泣いちゃうかもしれないから」
彼女はそう言って笑った。冗談めかしていたけれど、本音に近いようにも感じた。
俺は「そうか」とだけ返して、言葉を選ぶように沈黙した。
空がだんだん赤くなっていく。中庭のベンチの影が、長く地面に伸びている。
日が落ちるのは、こんなに早かったっけと思った。
その時、不意に陽葵のスマホが震えた。
切ったはずの電源。いや、切れてなかったのか。
ディスプレイには、知らない番号が表示されていた。
彼女は数秒見つめたあと、受話ボタンを押した。
「はい……」
そして、次の瞬間。
「——え?」
彼女の表情が硬直した。
「いま……なんて……?」
俺は横で、ただその様子を見守ることしかできない。
「……うん。わかった。……行く。今から」
通話を切ると、彼女はしばらく言葉を失っていた。
そして、俺の方を見ずに言った。
「……お母さんが、倒れたって」
「……病院?」
「うん。市立の……救急に、運ばれたって」
俺はすぐに立ち上がった。
「行くぞ。タクシー、呼ぶ」
「え、でも……」
「一人で行くな。お前、まだ震えてる」
彼女は小さく唇を噛みしめた。
ほんの一瞬のためらいの後——
「……ありがとう」
それだけ言って、彼女は俺の隣に立った。
*
病院に着いたのは、夜の8時前だった。
すでに受付で名前を伝えてくれていたらしく、すぐに面会許可が下りた。
陽葵の母親は、過労による意識混濁状態とのことだった。
幸い命に別状はないが、数日は安静が必要だという。
陽葵は、ベッドの傍らに立っていた。
俺は少し離れて椅子に座り、その様子を見ていた。
「……こんなときでも、まだ私に何か言おうとしてくるんだろうかって思った」
唐突に、陽葵が呟いた。
「“もう家に帰ってきなさい”とか、“部活やめてちゃんと音楽科に入り直しなさい”とか……そういうことしか言わない人だったから」
俺は、なにも言えなかった。
ただ、彼女の言葉に耳を傾けた。
「でも、ね」
彼女は、ベッドの母親を見つめながら続けた。
「もし目を覚まして、何か責められても……もう私は、前みたいには崩れないかもしれない」
「……そうか?」
「うん。だって」
陽葵は、ゆっくりこちらを見た。
「今は、私の音を聴いてくれる人がいるから」
俺は、言葉を失っていた。
ただ、その言葉が、心に刺さって、沁みて、痛いくらいに残った。
彼女は、すこしだけ笑った。
今まで見たどの笑顔よりも、小さくて、それでも確かに強かった。
——そしてそのとき、俺のスマホも震えた。
知らない番号からだった。
画面に表示された発信者名は——《山路遥》。
俺は一瞬、ためらって、それから応答ボタンを押した。
「もしもし、八坂奏くん? 俺、山路っていうんだけど」
低く落ち着いた声だった。年相応というより、少し大人びている。
「陽葵、そっちにいるよね。よかった。……それでさ、ちょっと話があるんだ」
「話?」
「——君に、彼女の“過去”のことを全部、話しておきたいんだ」




