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第27話 始まりの調律、風の中の音

朝が来ると、世界は少しだけ優しくなったように思えた。


ほんの少しのこと。

ベランダに差し込む光がいつもより柔らかいとか、隣の部屋から聴こえる目覚ましの音が遠く感じるとか。

そんな微細な変化の中に、自分の心が動いていることを悟る。


 


「……ん」


小さく伸びをして、俺は布団から這い出した。


時計は、朝の七時を少し過ぎたところ。


普段ならギリギリまで寝ている時間だけど、今日はなぜか自然に目が覚めてしまった。


 


キッチンには、もう陽葵がいた。


すっかり俺の部屋の住人みたいな顔をして、電気ポットを片手に紅茶を淹れている。


 


「おはよう」


「……うん、おはよう」


彼女は、珍しく穏やかな表情だった。まぶたの腫れも、もう目立たない。


 


「……昨日さ、夜にちょっとだけホルン吹いてみた」


彼女は何でもないことのように言った。


でも俺にとっては、それが何よりも嬉しかった。


 


「そっか」


「うん。……最初は音が出なかったけど、でも、最後にはちょっとだけ鳴った」


「それで、どうだった?」


「…………」


彼女はマグカップに紅茶を注ぎながら、小さく笑った。


「……ああ、やっぱり好きだな、って思った」


 


その声には、悲しさも、未練も、決意も全部混じっていた。


まるで一つの旋律みたいだった。


 



 


授業のあと、俺は学内の音楽棟に寄った。


今日は軽音の練習日ではなかったけれど、ふと弾きたくなってしまったからだ。


ひとりきりのスタジオ。ギターを抱えて、アンプにつなぐ。


指を弦に乗せる瞬間、なぜか陽葵のことを思い出した。


 


彼女の吹くホルンは、いつも不思議な音がした。


澄んでいて、でも哀しくて、どこか懐かしい。


それはまるで、彼女自身みたいだった。


 


——君の音が好きだ。


それだけを、何度も心の中で繰り返した。


 


俺はギターのネックに手を添え、静かに音を奏でた。


暖かく、でも揺れるような旋律。


それはきっと、言葉よりも正直な“祈り”だった。


 



 


夜、陽葵は部屋の隅でホルンを組み立てていた。


その姿を、俺はただ黙って見ていた。


彼女はまだ“戻る”と決めたわけじゃない。


でも、「向き合おう」としている。それだけで、すごいことだ。


 


「なあ、陽葵」


「なに?」


「……その、さ。俺にできること、あるかな?」


彼女は少しだけ驚いた顔をして、すぐに少し照れくさそうに笑った。


 


「もう、してもらってる。いっぱい」


「そうか」


「でも……もし、また音が出なくなったら、そのときは……」


 


彼女は少し顔をそらして、小さな声で言った。


 


「そのときは……歌って。私のかわりに」


 


不意に、胸の奥が熱くなった。


言葉が出ないまま、俺はただ頷いた。






「——じゃあ、行ってくる」


陽葵がホルンケースを肩にかけて、玄関に立った。


その姿は、どこかぎこちなく、それでも確かに前に進もうとしているようだった。


 


「無理しないでな」


「わかってる。……でも、行かないと、きっと後悔するから」


 


彼女の言葉は、ゆっくりと空気の中に溶けていった。


 


今日は、部活の見学だけ。吹こうが吹くまいが、自由。


でもそれでも、彼女にとっては大きな一歩だった。


 


俺はドアが閉まる音を聞きながら、ソファに深く腰を沈めた。


彼女がいない部屋は、やけに静かだった。


 



 


時刻は夕方。


窓の外が橙色に染まり始めたころ、LINEが一通届いた。


差出人は——百合野沙耶。


奏先輩

今日、少しだけ会えませんか?


 


久しぶりの連絡だった。


 


部屋を出ると、百合野は大学近くの公園にいた。


グラウンドの端にあるベンチに腰かけ、制服ではなく私服だった。いつもの元気な印象よりも、少し落ち着いた雰囲気だ。


 


「急にごめんね」


「いいよ。どうかした?」


「……うん。ちょっとだけ、話したくなって」


 


彼女の目はどこか遠くを見ていた。


 


「私、……この前の発表会、先輩と陽葵さんの演奏、ずっと見てた」


 


ああ、あのとき。


陽葵が、まだ無理を押してステージに立っていた頃だ。


 


「正直、悔しかった」


「え……?」


「私……ずっと奏先輩のこと、好きだったから」


 


その言葉は、あまりに真っ直ぐで、痛かった。


 


「陽葵さんと一緒にいるときの先輩の顔、すごく、優しいの。……私には、見せたことない顔だなって思った」


 


沈黙。


夕日が、公園の木々の隙間から差し込んでいる。


 


「でも、伝えなきゃって思ったの。……誰かに取られたくないって思うのは、きっと悪いことじゃないでしょ?」


 


百合野は笑った。


その笑顔は、ほんの少し泣きそうだった。


 


「……ありがとう」


俺はそれだけしか言えなかった。


 


「ごめん、変なこと言っちゃって」


「……変じゃない。ちゃんと、伝わった」


 


百合野は、ほんの少し顔を赤くして、立ち上がった。


「じゃあね、奏先輩。次は、ちゃんと“応援”できるようになってくるから」


 


風が吹いた。


彼女の髪が揺れ、影が遠ざかっていく。


 


俺は、スマホを取り出して陽葵にLINEを送った。


無理してないか?


すぐに返信が来た。


……ちょっと疲れたけど、大丈夫。

今日、ひとつだけ音が出たの。みんなが驚いてた。

でも、私、ちょっとだけ嬉しかった。


 


俺はそれを読んで、深く息を吐いた。


彼女は、前に進んでいる。


その隣に、俺は——ちゃんと、立てているのだろうか。


 



 


その夜、陽葵は帰ってくるなり、ソファに倒れ込んだ。


「疲れた……もう動けない……」


「お疲れさん。なんか作るか?」


「うーん、なにか甘いもの……プリンが食べたい……」


「プリンかよ」


「……あ、でもスーパーのじゃなくて、手作り」


「めんどくせぇ!」


「お願い。頑張ったんだから」


 


しょうがない、と笑って俺はキッチンに向かった。


 


たぶん俺も、彼女に「甘い」んだと思う。


でも、それくらいでいい。


だって、彼女が今こうして——


「笑って」くれてるから。

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