第27話 始まりの調律、風の中の音
朝が来ると、世界は少しだけ優しくなったように思えた。
ほんの少しのこと。
ベランダに差し込む光がいつもより柔らかいとか、隣の部屋から聴こえる目覚ましの音が遠く感じるとか。
そんな微細な変化の中に、自分の心が動いていることを悟る。
「……ん」
小さく伸びをして、俺は布団から這い出した。
時計は、朝の七時を少し過ぎたところ。
普段ならギリギリまで寝ている時間だけど、今日はなぜか自然に目が覚めてしまった。
キッチンには、もう陽葵がいた。
すっかり俺の部屋の住人みたいな顔をして、電気ポットを片手に紅茶を淹れている。
「おはよう」
「……うん、おはよう」
彼女は、珍しく穏やかな表情だった。まぶたの腫れも、もう目立たない。
「……昨日さ、夜にちょっとだけホルン吹いてみた」
彼女は何でもないことのように言った。
でも俺にとっては、それが何よりも嬉しかった。
「そっか」
「うん。……最初は音が出なかったけど、でも、最後にはちょっとだけ鳴った」
「それで、どうだった?」
「…………」
彼女はマグカップに紅茶を注ぎながら、小さく笑った。
「……ああ、やっぱり好きだな、って思った」
その声には、悲しさも、未練も、決意も全部混じっていた。
まるで一つの旋律みたいだった。
*
授業のあと、俺は学内の音楽棟に寄った。
今日は軽音の練習日ではなかったけれど、ふと弾きたくなってしまったからだ。
ひとりきりのスタジオ。ギターを抱えて、アンプにつなぐ。
指を弦に乗せる瞬間、なぜか陽葵のことを思い出した。
彼女の吹くホルンは、いつも不思議な音がした。
澄んでいて、でも哀しくて、どこか懐かしい。
それはまるで、彼女自身みたいだった。
——君の音が好きだ。
それだけを、何度も心の中で繰り返した。
俺はギターのネックに手を添え、静かに音を奏でた。
暖かく、でも揺れるような旋律。
それはきっと、言葉よりも正直な“祈り”だった。
*
夜、陽葵は部屋の隅でホルンを組み立てていた。
その姿を、俺はただ黙って見ていた。
彼女はまだ“戻る”と決めたわけじゃない。
でも、「向き合おう」としている。それだけで、すごいことだ。
「なあ、陽葵」
「なに?」
「……その、さ。俺にできること、あるかな?」
彼女は少しだけ驚いた顔をして、すぐに少し照れくさそうに笑った。
「もう、してもらってる。いっぱい」
「そうか」
「でも……もし、また音が出なくなったら、そのときは……」
彼女は少し顔をそらして、小さな声で言った。
「そのときは……歌って。私のかわりに」
不意に、胸の奥が熱くなった。
言葉が出ないまま、俺はただ頷いた。
*
「——じゃあ、行ってくる」
陽葵がホルンケースを肩にかけて、玄関に立った。
その姿は、どこかぎこちなく、それでも確かに前に進もうとしているようだった。
「無理しないでな」
「わかってる。……でも、行かないと、きっと後悔するから」
彼女の言葉は、ゆっくりと空気の中に溶けていった。
今日は、部活の見学だけ。吹こうが吹くまいが、自由。
でもそれでも、彼女にとっては大きな一歩だった。
俺はドアが閉まる音を聞きながら、ソファに深く腰を沈めた。
彼女がいない部屋は、やけに静かだった。
*
時刻は夕方。
窓の外が橙色に染まり始めたころ、LINEが一通届いた。
差出人は——百合野沙耶。
奏先輩
今日、少しだけ会えませんか?
久しぶりの連絡だった。
部屋を出ると、百合野は大学近くの公園にいた。
グラウンドの端にあるベンチに腰かけ、制服ではなく私服だった。いつもの元気な印象よりも、少し落ち着いた雰囲気だ。
「急にごめんね」
「いいよ。どうかした?」
「……うん。ちょっとだけ、話したくなって」
彼女の目はどこか遠くを見ていた。
「私、……この前の発表会、先輩と陽葵さんの演奏、ずっと見てた」
ああ、あのとき。
陽葵が、まだ無理を押してステージに立っていた頃だ。
「正直、悔しかった」
「え……?」
「私……ずっと奏先輩のこと、好きだったから」
その言葉は、あまりに真っ直ぐで、痛かった。
「陽葵さんと一緒にいるときの先輩の顔、すごく、優しいの。……私には、見せたことない顔だなって思った」
沈黙。
夕日が、公園の木々の隙間から差し込んでいる。
「でも、伝えなきゃって思ったの。……誰かに取られたくないって思うのは、きっと悪いことじゃないでしょ?」
百合野は笑った。
その笑顔は、ほんの少し泣きそうだった。
「……ありがとう」
俺はそれだけしか言えなかった。
「ごめん、変なこと言っちゃって」
「……変じゃない。ちゃんと、伝わった」
百合野は、ほんの少し顔を赤くして、立ち上がった。
「じゃあね、奏先輩。次は、ちゃんと“応援”できるようになってくるから」
風が吹いた。
彼女の髪が揺れ、影が遠ざかっていく。
俺は、スマホを取り出して陽葵にLINEを送った。
無理してないか?
すぐに返信が来た。
……ちょっと疲れたけど、大丈夫。
今日、ひとつだけ音が出たの。みんなが驚いてた。
でも、私、ちょっとだけ嬉しかった。
俺はそれを読んで、深く息を吐いた。
彼女は、前に進んでいる。
その隣に、俺は——ちゃんと、立てているのだろうか。
*
その夜、陽葵は帰ってくるなり、ソファに倒れ込んだ。
「疲れた……もう動けない……」
「お疲れさん。なんか作るか?」
「うーん、なにか甘いもの……プリンが食べたい……」
「プリンかよ」
「……あ、でもスーパーのじゃなくて、手作り」
「めんどくせぇ!」
「お願い。頑張ったんだから」
しょうがない、と笑って俺はキッチンに向かった。
たぶん俺も、彼女に「甘い」んだと思う。
でも、それくらいでいい。
だって、彼女が今こうして——
「笑って」くれてるから。




