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第26話 揺れる距離、重なる指先

人間の関係って、不思議なものだと思う。


少しの言葉で近づいて、少しの沈黙で遠ざかる。

触れられない距離で、相手の温度を探ってしまう。


 


最近の陽葵は、なんというか——柔らかくなった。


いや、それは俺の勝手な印象かもしれない。

彼女の態度が優しくなったんじゃなくて、俺が少しずつ、彼女の“硬さ”の下にある素顔を見つけられるようになった、ってだけなのかもしれない。


 


今日の彼女も、例によって俺の部屋にいる。


ギターのチューニングを終えた俺は、ふと視線を上げて、ホルンケースの横で黙って座る陽葵を見た。


 


「……なんか考えてる?」


「ううん。なんでもない」


「じゃあ、なんかあったな」


「……うん。ばれたか」


 


彼女はいつもこうだ。


“平気”って顔をして、平気じゃないことを隠すのがうまい。


だけど最近は、俺の前では少しずつ、その仮面が緩んできている。


 


「紫月さんにね、また声をかけられた」


「また?」


「“吹奏楽部に戻ってこないのは、逃げなんじゃない?”って言われた」


 


それは彼女の性格を思えば、言いそうな言葉だった。


紫月は真っ直ぐすぎる。だからこそ、人を傷つける。


 


「でも、わかる気もしたんだ」


陽葵はポツリと呟いた。


「たぶん私、ほんとは怖くて戻れないだけなんだと思う」


「怖い?」


「また否定されるのが。……また、音を否定されるのが」


 


俺は彼女の隣に座って、ゆっくりと膝を合わせた。


そして、ホルンケースの上にそっと手を置く。


 


「お前の音、好きだよ。俺は」


「……ほんと?」


「本気だよ。お前の音は、誰とも違う」


 


彼女は目を伏せて、小さく頷いた。


そして、ぽつりと聞いた。


 


「ねえ、奏」


「ん?」


「私の音……誰かのために吹いても、いいかな」


 


その言葉に、心臓が少しだけ跳ねた。


言葉にしなかったけれど、俺の中で何かが確かに動いた。


 


「もちろん。吹いてくれ。……俺のためにでも」


 


陽葵は、笑った。


けれどその笑みは、どこか寂しげでもあった。


 


「でも、もし私の音が届かなかったら……怖いな」


 


「届くよ」


俺は、迷わず言った。


「お前が本気で吹いた音なら、きっと誰かに届く。——俺には、もう届いてるから」


 


その言葉が、彼女の不安をどこまで癒したかは、わからない。


でも——陽葵の指が、そっとホルンケースの金具に触れた。


まだ、開かれなかったけれど。それでも。


 


確かに、一歩前に進んだ音が、そこにあった。



紫月真綾は、気づいていた。


自分が陽葵に抱いている感情が、「嫉妬」だと。


 


でもそれだけじゃない。


その奥には、もっと静かで、もっと苦しいものが潜んでいた。


——羨望。

——後悔。

——そして、かすかな“恋心”。


 


(私、どうして……)


 


いつからだろう。八坂奏の視線が、陽葵だけを追っていることに気づいたのは。


最初は、彼の演奏に惹かれた。ただ、それだけだった。


でも彼の「優しさ」に触れて、彼の「孤独」に気づいて、彼の「痛み」に寄り添いたいと思った。


 


(でも、私じゃない)


 


彼の目には、最初から“彼女”しか映っていなかった。


それが悔しかったし、何より——悲しかった。


 


「真綾、ちょっと話せる?」


部活の帰り道、背後から聞こえたのは、部の後輩・百合野からの声だった。


「うん、どうしたの?」


百合野は、言いにくそうに言葉を継いだ。


「……この前、陽葵さんと奏先輩が一緒に歩いてるの、見ちゃって」


「……そっか」


「なんか、雰囲気……すごくよかったっていうか……」


百合野は心配そうな顔をした。


「ごめんね、言わない方がよかったかな……」


「ううん。ありがとう」


 


微笑んだつもりだったけれど、口角がうまく上がらなかった。


胸の奥で何かが、ゆっくりと崩れていく音がした。


 


その夜、真綾はスマホを手にしながら迷っていた。


送信画面に並ぶ文字。


陽葵さん、少しお話しできませんか?


彼女は、ためらいながらも、送信ボタンを押した。


 



 


「……で、なんの用?」


夜のファミレス。窓際の席に陽葵がやってきた。


相変わらず高圧的な口調だが、その目はどこか警戒していた。


 


「この前は、ごめんなさい」


「何の話?」


「“逃げなんじゃないか”って、言ったこと」


 


陽葵はしばらく沈黙した後、ふっとため息をついた。


「別にいいよ。……あれくらいじゃ、もう傷つかないし」


「でも……ほんとは、ずっと羨ましかったの」


真綾は、静かに目を伏せた。


「私、音楽好きだけど……陽葵さんみたいに“音で語る”ことができない。怖かった」


 


陽葵は何も言わなかった。


真綾はそれでも言葉を続けた。


 


「奏くんのこと、好きだった」


その瞬間、空気がピンと張り詰めた。


「……ううん、たぶん今も好き。でも……叶わないって、わかってる」


 


陽葵の目が、少し揺れる。


真綾は、淡く微笑んだ。


「だから、あなたには……幸せになってほしい。奏くんと一緒に、ちゃんと前を向いてほしいの」


 


「……なにそれ」


陽葵の声は小さく、震えていた。


「そんなふうに言われたら……なんか、ちゃんと向き合わなきゃって思うじゃん」


 


「それでいいんだよ」


「……あんた、ほんとムカつく」


「ありがとう」


 


沈黙が、少しだけ優しくなる。


ほんの一瞬だけ、二人の距離が縮まった気がした。


 



 


その夜、陽葵は久しぶりにホルンを取り出した。


窓を開ける。夜風が頬をなでる。


深く息を吸って、マウスピースに唇を当てる。


 


——音が、出た。


 


震えるように、弱々しく。それでも、確かに。


誰のためでもなく、自分のために。


そして、ほんの少しだけ、"彼"に届くことを願って。

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