第25話 紫月の視線、閉じたホルンケース
「……最近、あのふたり、よく一緒にいるね」
昼休み、私立明晴大学の中庭にて。
吹奏楽部のホルンパート、紫月真綾は、マウスピースの先をかじりながらぽつりとつぶやいた。
その視線の先——木陰のベンチで、ギターケースを膝に置いた奏と、笑いながら隣に座る陽葵。
最近、彼と彼女が一緒にいるのを見かけるのは、珍しいことじゃなくなった。
むしろ、"日常"になりつつあった。
「……仲、いいんだね。高校ではそんなでもなかったのに」
紫月の独り言に、誰も答えない。
答える人間を、彼女はそもそも待っていなかった。
ギターとホルン。
あの2つの音が混ざり合うことなんて、通常の編成ではまずありえない。
けれど、彼らはそれを"可能にしよう"としている。
それが、紫月には——妙に胸に引っかかった。
*
「ねえ、陽葵さん」
授業のあと、紫月は勇気を出して陽葵を呼び止めた。
彼女は少し驚いたような顔をしたが、すぐに表情を戻した。
「……なに?」
「奏くんと、よく一緒にいるね」
「そうだけど?」
あっさりと返されて、紫月は少したじろいだ。
けれど、ここで引くわけにはいかなかった。
「高校の時から、あの人のこと好きだったの?」
少しの沈黙。
そして、陽葵は微笑を浮かべて言った。
「……さあ、どうだろうね」
「ごまかさないで」
「別にごまかしてない。ほんとのこと言っただけ」
それ以上、何を言っても無駄だと、紫月は直感した。
けれど、何も言わずに帰るのは、もっと嫌だった。
「……ホルン、もうちゃんと吹けるの?」
その言葉に、陽葵の肩がぴくりと揺れた。
紫月はその反応を見逃さなかった。
「部活、戻るつもりはある?」
「ないよ。戻るつもりは、最初からない」
陽葵の言葉は、思った以上にあっさりとしていた。
でもその声には、冷たい鉄のような硬さが混じっていた。
「……ふうん」
紫月はそれ以上追及せず、ただ一言だけつぶやいた。
「私は、戻ってきてほしいけどね。あなたのホルンの音、好きだったから」
それが本心だったのか、挑発だったのか。
紫月自身にも、わからなかった。
*
夜。
俺は陽葵の部屋で、ギターの弦を張り直していた。
陽葵はホルンのマウスピースを磨いていたが、途中で手が止まっていた。
「……どうした?」
「……今日、紫月に会った」
「真綾?」
「うん。“戻ってきてほしい”って、言われた」
俺は一瞬だけ手を止めたが、すぐに弦の張り作業に戻る。
「戻らないのか?」
「うん。……私の居場所じゃないから」
その言葉が、どこか悲しげだった。
それでも、陽葵の視線は迷っていなかった。
俺はギターを軽く弾いた。
高く響くGコードが、部屋の空気を振るわせる。
「じゃあ、こっちでお前の音を鳴らせばいい」
「……うん」
そして、陽葵はホルンケースを閉じた。
「今日は吹かない」と言わんばかりに。
それでも、その手の中には——確かに“音を出したい”気持ちが宿っていた。
*
紫月真綾は、明るい子だと思われていた。
ふわふわの髪、いつも笑顔。
気配りができて、誰にでも優しい。
だけど本当のところ、彼女はずっと気づいていた。
自分の中に、重たい"嫉妬"のような感情があることに。
(私……やっぱり、陽葵さんが怖いんだ)
彼女のホルンの音を聴くたびに、息を呑んだ。
あの音は、音楽じゃなくて——感情そのものだった。
泣いていても、怒っていても、何も言わなくても、音だけですべて伝わってしまうような。
紫月がどれだけ努力しても、届かないと思わされる"差"が、確かにそこにあった。
そして今、それに惹かれている奏の姿を、ただ黙って見ているのが苦しかった。
(私だって……)
*
翌日、部活終わりに奏が部室前で待っていた。
紫月は驚いた顔を見せたが、すぐに表情を戻して言った。
「……なにか用?」
「ちょっと話せる?」
「……うん」
人気のないベンチに並んで座ると、奏は言った。
「陽葵のこと、ありがとうな」
「え?」
「昨日、なんか考え込んでたみたいだったけど、紫月が話してくれたって聞いた」
紫月はゆっくりと視線を落とす。
「私は……ただ、聞きたかっただけだよ」
その声は正直だった。
嘘はついていない。でも、本当のことも隠していた。
「……奏くん」
「ん?」
「もし陽葵さんが、もう音楽をやらないって言ったら……それでも、そばにいる?」
彼は少し考えてから、真っすぐに言った。
「ああ。俺は、彼女が音楽をやめたとしても関係ない」
「……どうして?」
「だって俺、陽葵の“音”より先に、陽葵自身に惹かれてるから」
その言葉に、紫月の胸の奥がきゅっと締めつけられた。
やっぱりそうなんだ、と思った。
自分は最初から、立ち位置が違ったのだ。
(どうして……どうして私は、こんなに……)
そんな気持ちを抱えたまま、紫月はかすかに笑った。
「……そっか。素敵だね」
「……ありがとう」
でもその笑顔は、ひどく静かで、ひどく哀しかった。
*
その夜。
陽葵はまた一人、ホルンのマウスピースを手にしていた。
部屋には、音がない。
けれど彼女の目は、過去の景色を見ていた。
——あの夏の日。吹奏楽コンクールの舞台裏。
「あなたの音、正直、足を引っ張ってるのよ」
「ソロももう外していいよね?」
「自己主張しすぎなんだよ、ホルンっていう立場わかってる?」
あの日から、ホルンは恐怖になった。
吹くたびに、自分を否定されるような気がした。
でも今、少しずつ——ほんの少しずつ、音を取り戻している。
そして、あのギターの音が、すぐそばにある。
それが、陽葵を支えていた。
「……ありがとう」
誰に言った言葉だったのか。
それは、自分でもわからなかった。




