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第25話 紫月の視線、閉じたホルンケース

「……最近、あのふたり、よく一緒にいるね」


 


昼休み、私立明晴大学の中庭にて。


吹奏楽部のホルンパート、紫月真綾(しづきまあや)は、マウスピースの先をかじりながらぽつりとつぶやいた。


 


その視線の先——木陰のベンチで、ギターケースを膝に置いた奏と、笑いながら隣に座る陽葵。


最近、彼と彼女が一緒にいるのを見かけるのは、珍しいことじゃなくなった。


むしろ、"日常"になりつつあった。


 


「……仲、いいんだね。高校ではそんなでもなかったのに」


 


紫月の独り言に、誰も答えない。


答える人間を、彼女はそもそも待っていなかった。


 


ギターとホルン。

あの2つの音が混ざり合うことなんて、通常の編成ではまずありえない。


けれど、彼らはそれを"可能にしよう"としている。


 


それが、紫月には——妙に胸に引っかかった。


 



 


「ねえ、陽葵さん」


授業のあと、紫月は勇気を出して陽葵を呼び止めた。


彼女は少し驚いたような顔をしたが、すぐに表情を戻した。


 


「……なに?」


「奏くんと、よく一緒にいるね」


「そうだけど?」


 


あっさりと返されて、紫月は少したじろいだ。


けれど、ここで引くわけにはいかなかった。


 


「高校の時から、あの人のこと好きだったの?」


 


少しの沈黙。


そして、陽葵は微笑を浮かべて言った。


 


「……さあ、どうだろうね」


「ごまかさないで」


「別にごまかしてない。ほんとのこと言っただけ」


 


それ以上、何を言っても無駄だと、紫月は直感した。


けれど、何も言わずに帰るのは、もっと嫌だった。


 


「……ホルン、もうちゃんと吹けるの?」


 


その言葉に、陽葵の肩がぴくりと揺れた。


紫月はその反応を見逃さなかった。


 


「部活、戻るつもりはある?」


「ないよ。戻るつもりは、最初からない」


 


陽葵の言葉は、思った以上にあっさりとしていた。


でもその声には、冷たい鉄のような硬さが混じっていた。


 


「……ふうん」


紫月はそれ以上追及せず、ただ一言だけつぶやいた。


 


「私は、戻ってきてほしいけどね。あなたのホルンの音、好きだったから」


 


それが本心だったのか、挑発だったのか。


紫月自身にも、わからなかった。


 



 


夜。


俺は陽葵の部屋で、ギターの弦を張り直していた。


陽葵はホルンのマウスピースを磨いていたが、途中で手が止まっていた。


 


「……どうした?」


「……今日、紫月に会った」


「真綾?」


「うん。“戻ってきてほしい”って、言われた」


 


俺は一瞬だけ手を止めたが、すぐに弦の張り作業に戻る。


 


「戻らないのか?」


「うん。……私の居場所じゃないから」


 


その言葉が、どこか悲しげだった。


それでも、陽葵の視線は迷っていなかった。


 


俺はギターを軽く弾いた。


高く響くGコードが、部屋の空気を振るわせる。


 


「じゃあ、こっちでお前の音を鳴らせばいい」


「……うん」


 


そして、陽葵はホルンケースを閉じた。


「今日は吹かない」と言わんばかりに。


 


それでも、その手の中には——確かに“音を出したい”気持ちが宿っていた。







紫月真綾は、明るい子だと思われていた。


ふわふわの髪、いつも笑顔。

気配りができて、誰にでも優しい。


だけど本当のところ、彼女はずっと気づいていた。


自分の中に、重たい"嫉妬"のような感情があることに。


 


(私……やっぱり、陽葵さんが怖いんだ)


 


彼女のホルンの音を聴くたびに、息を呑んだ。


あの音は、音楽じゃなくて——感情そのものだった。


泣いていても、怒っていても、何も言わなくても、音だけですべて伝わってしまうような。


 


紫月がどれだけ努力しても、届かないと思わされる"差"が、確かにそこにあった。


そして今、それに惹かれている奏の姿を、ただ黙って見ているのが苦しかった。


 


(私だって……)


 



 


翌日、部活終わりに奏が部室前で待っていた。


紫月は驚いた顔を見せたが、すぐに表情を戻して言った。


 


「……なにか用?」


「ちょっと話せる?」


「……うん」


 


人気のないベンチに並んで座ると、奏は言った。


 


「陽葵のこと、ありがとうな」


「え?」


「昨日、なんか考え込んでたみたいだったけど、紫月が話してくれたって聞いた」


 


紫月はゆっくりと視線を落とす。


「私は……ただ、聞きたかっただけだよ」


 


その声は正直だった。


嘘はついていない。でも、本当のことも隠していた。


 


「……奏くん」


「ん?」


「もし陽葵さんが、もう音楽をやらないって言ったら……それでも、そばにいる?」


 


彼は少し考えてから、真っすぐに言った。


 


「ああ。俺は、彼女が音楽をやめたとしても関係ない」


 


「……どうして?」


「だって俺、陽葵の“音”より先に、陽葵自身に惹かれてるから」


 


その言葉に、紫月の胸の奥がきゅっと締めつけられた。


やっぱりそうなんだ、と思った。


自分は最初から、立ち位置が違ったのだ。


 


(どうして……どうして私は、こんなに……)


 


そんな気持ちを抱えたまま、紫月はかすかに笑った。


 


「……そっか。素敵だね」


「……ありがとう」


 


でもその笑顔は、ひどく静かで、ひどく哀しかった。


 



 


その夜。


陽葵はまた一人、ホルンのマウスピースを手にしていた。


部屋には、音がない。


けれど彼女の目は、過去の景色を見ていた。


 


——あの夏の日。吹奏楽コンクールの舞台裏。


「あなたの音、正直、足を引っ張ってるのよ」


「ソロももう外していいよね?」


「自己主張しすぎなんだよ、ホルンっていう立場わかってる?」


 


あの日から、ホルンは恐怖になった。


吹くたびに、自分を否定されるような気がした。


でも今、少しずつ——ほんの少しずつ、音を取り戻している。


 


そして、あのギターの音が、すぐそばにある。


それが、陽葵を支えていた。


 


「……ありがとう」


誰に言った言葉だったのか。


それは、自分でもわからなかった。

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