第24話 吹けないホルンと、まだ出せない音
「……これ、ホルン?」
土曜の昼下がり。
俺は陽葵の家を訪れていた。
古びたハードケースを見下ろしながら、思わず訊いた。
「うん。高校のときに使ってたやつ。……大学では、部のやつを借りてたけど」
陽葵は、リビングの床にケースを置いて、静かに金具を外していく。
重たい音を立てて、ケースが開いた。
中には、少し曇った金色のホルン。
管のつなぎ目には、使い込まれた傷や手入れの跡があった。
「……音、出すの久しぶり」
彼女はそう言って、ぎこちなくマウスピースをはめた。
「練習するの、見てていいか?」
「……うん」
俺はソファに腰を下ろし、静かに見守る。
陽葵は深呼吸をひとつして、ホルンを構えた。
その姿勢は、どこか危うげだった。
——息を吸い、唇をマウスピースに押し当てる。
けれど、
「……っ」
彼女の口からは、音が出なかった。
息がもれるだけで、金管特有の響きは生まれない。
もう一度、試す。
けれど、またしても——音は、出ない。
「……ごめん。ちょっとだけ、離れてて」
陽葵はそう言って、顔を伏せた。
「わかった」
俺はソファを離れ、キッチンのカウンターにもたれた。
彼女の背中が、小さく震えていた。
*
数分後。ようやく、かすれたような音が、部屋に響いた。
ひとつの音だけ。
それでも——ようやく出た音。
その音を聞いた瞬間、俺の胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚に包まれた。
きっと、彼女にしか出せない音だった。
震えながら、それでも前に進もうとしている音。
「……出たな」
俺がぽつりとそう言うと、陽葵は、やっとの思いでこちらを向いた。
目尻が、ほんの少し赤かった。
「……泣いてないから」
「何も言ってないけど」
「でも、見てたでしょ」
俺は肩をすくめる。
そして、ゆっくりと言った。
「その音、すごくよかったよ」
「……嘘つき」
「いや、本気で言ってる」
陽葵はホルンをそっとケースに戻した。
そして、床に座ったまま、俺の方を見上げる。
「……今度さ、あなたのギターと、私のホルンで、何かやってみない?」
「合わせるのか?」
「うん。まだちゃんと吹けないかもしれないけど……やってみたいと思った」
彼女の目は、少しだけ潤んでいたけれど——力強かった。
少し前までは考えられなかったようなその言葉に、俺は自然と、うなずいていた。
「……じゃあ、その時は、俺も本気出すわ」
「……楽しみにしてる」
沈黙の続いた時間に、ようやくひとつの“音”が生まれた。
それはまだ小さな、小さな始まりだった。
*
日曜の午後、俺たちは再び陽葵の部屋にいた。
昨日の“ひとつの音”が、確かに今日へと繋がっている。
彼女のホルンと、俺のアコースティックギター。
ありえない組み合わせにも思えるが、悪くない。
むしろ、どこか挑戦的で、俺には心地よかった。
「とりあえず、簡単なコード進行でいこう。C、G、Am、F……王道のやつ」
「……私、音感はまだ戻りきってないけど、なんとなくで合わせてみる」
陽葵の声は、昨日よりも少しだけ前を向いていた。
それが何より嬉しかった。
ギターの弦を軽くはじく。
空間に音が満ちていく。
そのリズムに合わせて、陽葵がホルンを構えた。
深く息を吸い込む。
そして——
「ぷすっ……」
「……」
「……ちょっと今のは聞かなかったことにして」
「……了解」
2秒の沈黙のあと、俺たちは吹き出した。
心から、笑った。
「……音、出すってむずかしいね」
「出てただろ、ある意味」
「うるさい」
けれど、その一発も含めて、間違いなく“セッション”だった。
お互いにとって未完成な音でも、それを重ねようとする意思があるなら、それは音楽だ。
「なあ、陽葵」
「ん?」
「この曲、今度のライブでやらないか?」
俺の言葉に、彼女は目を見開いた。
そしてすぐ、目をそらして、ぽつりとつぶやいた。
「……私、まだ“人前”は怖いよ?」
「知ってる。でも、俺が横にいる」
「……それでどうにかなるの?」
「俺のギター、なめんなよ」
強がりを込めて言ったつもりだったけど、実際、それなりに自信はある。
陽葵は一瞬だけ笑って——それから、ゆっくりうなずいた。
「……じゃあ、練習だけは、してみる」
その言葉に、俺はギターの弦を再びはじいた。
陽葵が吹く準備をする。
ふたりの呼吸が重なり始めた。
まだ不格好なセッション。
でも、間違いなく、“始まった”と感じた。
*
その日の夜、俺は久しぶりに配信をした。
コメント欄には見知ったリスナーたちが並び、リクエストが飛び交っていた。
でも、今日は全部スルー。
俺は自分の言葉で、語り始める。
「今日は、誰かと音を重ねた」
それだけを、ゆっくりと。
ギターの弦が、やさしく鳴る。
「不器用でも、音が揃わなくても、気持ちは伝わるんだって、そう思った」
それが誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。
けれどその音は、間違いなく、あるひとつの想いを運んでいた。




