表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/56

第24話 吹けないホルンと、まだ出せない音

「……これ、ホルン?」


土曜の昼下がり。

俺は陽葵の家を訪れていた。


古びたハードケースを見下ろしながら、思わず訊いた。


 


「うん。高校のときに使ってたやつ。……大学では、部のやつを借りてたけど」


陽葵は、リビングの床にケースを置いて、静かに金具を外していく。


重たい音を立てて、ケースが開いた。


 


中には、少し曇った金色のホルン。


管のつなぎ目には、使い込まれた傷や手入れの跡があった。


 


「……音、出すの久しぶり」


彼女はそう言って、ぎこちなくマウスピースをはめた。


 


「練習するの、見てていいか?」


「……うん」


 


俺はソファに腰を下ろし、静かに見守る。


陽葵は深呼吸をひとつして、ホルンを構えた。


その姿勢は、どこか危うげだった。


 


——息を吸い、唇をマウスピースに押し当てる。


 


けれど、


 


「……っ」


 


彼女の口からは、音が出なかった。


息がもれるだけで、金管特有の響きは生まれない。


 


もう一度、試す。

けれど、またしても——音は、出ない。


 


「……ごめん。ちょっとだけ、離れてて」


陽葵はそう言って、顔を伏せた。


 


「わかった」


俺はソファを離れ、キッチンのカウンターにもたれた。


彼女の背中が、小さく震えていた。


 



 


数分後。ようやく、かすれたような音が、部屋に響いた。


ひとつの音だけ。


それでも——ようやく出た音。


 


その音を聞いた瞬間、俺の胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚に包まれた。


きっと、彼女にしか出せない音だった。


震えながら、それでも前に進もうとしている音。


 


「……出たな」


俺がぽつりとそう言うと、陽葵は、やっとの思いでこちらを向いた。


目尻が、ほんの少し赤かった。


 


「……泣いてないから」


「何も言ってないけど」


「でも、見てたでしょ」


 


俺は肩をすくめる。


そして、ゆっくりと言った。


 


「その音、すごくよかったよ」


「……嘘つき」


「いや、本気で言ってる」


 


陽葵はホルンをそっとケースに戻した。


そして、床に座ったまま、俺の方を見上げる。


 


「……今度さ、あなたのギターと、私のホルンで、何かやってみない?」


 


「合わせるのか?」


「うん。まだちゃんと吹けないかもしれないけど……やってみたいと思った」


 


彼女の目は、少しだけ潤んでいたけれど——力強かった。


少し前までは考えられなかったようなその言葉に、俺は自然と、うなずいていた。


 


「……じゃあ、その時は、俺も本気出すわ」


「……楽しみにしてる」


 


沈黙の続いた時間に、ようやくひとつの“音”が生まれた。


それはまだ小さな、小さな始まりだった。







日曜の午後、俺たちは再び陽葵の部屋にいた。


昨日の“ひとつの音”が、確かに今日へと繋がっている。


彼女のホルンと、俺のアコースティックギター。


ありえない組み合わせにも思えるが、悪くない。


むしろ、どこか挑戦的で、俺には心地よかった。


 


「とりあえず、簡単なコード進行でいこう。C、G、Am、F……王道のやつ」


「……私、音感はまだ戻りきってないけど、なんとなくで合わせてみる」


 


陽葵の声は、昨日よりも少しだけ前を向いていた。


それが何より嬉しかった。


 


ギターの弦を軽くはじく。


空間に音が満ちていく。


そのリズムに合わせて、陽葵がホルンを構えた。


 


深く息を吸い込む。


そして——


 


「ぷすっ……」


 


「……」


 


「……ちょっと今のは聞かなかったことにして」


 


「……了解」


 


2秒の沈黙のあと、俺たちは吹き出した。


心から、笑った。


 


「……音、出すってむずかしいね」


「出てただろ、ある意味」


「うるさい」


 


けれど、その一発も含めて、間違いなく“セッション”だった。


お互いにとって未完成な音でも、それを重ねようとする意思があるなら、それは音楽だ。


 


「なあ、陽葵」


「ん?」


「この曲、今度のライブでやらないか?」


 


俺の言葉に、彼女は目を見開いた。


そしてすぐ、目をそらして、ぽつりとつぶやいた。


 


「……私、まだ“人前”は怖いよ?」


 


「知ってる。でも、俺が横にいる」


「……それでどうにかなるの?」


「俺のギター、なめんなよ」


 


強がりを込めて言ったつもりだったけど、実際、それなりに自信はある。


陽葵は一瞬だけ笑って——それから、ゆっくりうなずいた。


 


「……じゃあ、練習だけは、してみる」


 


その言葉に、俺はギターの弦を再びはじいた。


陽葵が吹く準備をする。


ふたりの呼吸が重なり始めた。


まだ不格好なセッション。


でも、間違いなく、“始まった”と感じた。


 



 


その日の夜、俺は久しぶりに配信をした。


コメント欄には見知ったリスナーたちが並び、リクエストが飛び交っていた。


でも、今日は全部スルー。


俺は自分の言葉で、語り始める。


 


「今日は、誰かと音を重ねた」


 


それだけを、ゆっくりと。


ギターの弦が、やさしく鳴る。


 


「不器用でも、音が揃わなくても、気持ちは伝わるんだって、そう思った」


 


それが誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。


けれどその音は、間違いなく、あるひとつの想いを運んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ