第23話 声にならなかったことば
その日、俺は初めて「朗読ライブ」というものに足を踏み入れた。
場所は、私立明晴大学の近くにある、こぢんまりとしたブックカフェ。
壁一面に詩集やエッセイが並び、柔らかな黄色い照明が、客席のざわめきを包んでいた。
カフェの一角には小さなステージがあり、椅子が四列ほど並べられている。
出演者のほとんどは大学生。表情には緊張がにじんでいた。
俺も、観客席の後ろの方に座っていたが、なんとなくそわそわしていた。
詩の朗読——それは、音楽とはまた違う“生の声”だ。
開演のチャイム代わりに、カップが置かれる音が響き、最初の朗読者がマイクの前に立った。
それから、順番に淡々と朗読が続いていく。
独白のような詩、リズムのある文章、怒りをぶつけるような声、祈るような声。
——そして、間宮志帆の名前が呼ばれた。
*
志帆は、ゆっくりとステージに立った。
服装は黒のワンピースに、白いカーディガン。
髪をひとつに結び、普段よりも少し背筋を伸ばしている。
「……詩のタイトルは、『しずく』です」
彼女の声は小さかった。
けれど、マイクを通したその声は、不思議と耳に残る。
「声が、落ちていく。
気づいてくれる人は、いなかった。
でも私は、声を出すのを、やめなかった——」
観客のざわめきが消える。
彼女の声は、震えていた。
けれど、それはたしかに——届いていた。
「あなたは、振り返ってくれた。
私の言葉のかわりに、ギターを差し出してくれた。
だから私は、ようやく思えた。
この痛みも、この沈黙も、
あなたに届けていいんだって——」
俺は、目をそらせなかった。
志帆の視線が、俺を通りすぎる。
けれど、そこにいたのは「聴いてほしい」と願う、ひとりの少女だった。
「このしずくが、音にならなくても
あなたが耳をすませてくれるなら
私はもう、黙らなくていい——」
最後の一行を読み上げたとき、志帆の声はほんの一瞬、詰まった。
でも、すぐに持ち直し、深くお辞儀をしてステージを降りた。
誰もが、息を呑んだように拍手をした。
——俺も、その中のひとりだった。
*
終演後、カフェの裏手で彼女を見つけた。
「……お疲れ」
「……うん」
志帆は、肩の力を抜いたように小さく笑った。
「どうだった?」
「……よかった。すごく、ちゃんと届いた」
「……そっか」
少し沈黙が続いたあと、彼女はぼそりと口にした。
「ねえ、八坂くん。……私も、誰かに“支えて”ほしかったんだと思う」
「……それは、甘え?」
「かもね。でも……誰かが“聞くよ”って言ってくれるのって、
こんなにうれしいんだって、今日、はじめて思った」
彼女は、かすかに泣きそうな顔をしていた。
けれどそれは、絶望じゃなかった。希望に触れたあとの、涙の匂いだった。
「……じゃあ、また何か書いたら、読めよ」
「うん。次はもう少し、明るいやつにする」
夜風が、少しだけ冷たかった。
だけどその中で、確かに、彼女の“声”は息づいていた。
*
間宮志帆の朗読が終わったその夜、俺は部屋に戻っても、ずっと彼女の声が耳に残っていた。
普段は無口で、感情をあまり表に出さない彼女が、言葉で、感情で、自分をさらけ出していた。
それがどれだけ勇気のいることだったか、考えるまでもなかった。
俺はギターを手に取り、何も考えずに弾き始めた。
コードはA、E、F♯m、D。何度も繰り返す、単純な循環コード。
だけどその中に、志帆の声が確かに重なるような気がした。
「……“届いてる”よ」
誰に言うでもないその一言が、夜の空気に紛れて消えていった。
*
翌朝。
朝の教室には、見慣れた空気と見慣れた顔が並んでいた。
その中に、陽葵の姿もあった。
彼女はいつものように無表情で座っていたが、俺が入ってきた瞬間、ほんの一瞬だけ視線を動かした。
まるで、「おはよう」と言葉を飲み込んだような、そんな表情だった。
俺は何も言わず、彼女の隣の席に座る。
ほんの少しの間、沈黙が流れる。
「……昨日、朗読会に行ってたんでしょ」
陽葵がぽつりと呟いた。
「……ああ。間宮が出るって聞いたからな」
「そう。……どうだった?」
「よかったよ。声、届いてた」
陽葵はうなずいた。
それから、少しだけ視線を伏せて、ぽつりと続ける。
「……私ね、人前で声を出すの、すごく苦手になっちゃって」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
彼女はホルン奏者として、何度もステージに立ってきたはずだ。
でも、彼女が苦しんでいたものは、音じゃなくて——「声」だったのかもしれない。
「……怖いんだよ。間違えたらどうしようとか、
笑われたらどうしようとか、あの頃の人たちがまた私を……って」
“あの頃”という言葉の裏に、吹奏楽部のしがらみや、家庭での重圧が透けて見える。
それは、彼女にとって今もまだ癒えきらない傷だった。
「でも——」
陽葵はゆっくりと顔を上げた。
「……昨日、志帆さんの朗読、配信で少しだけ聴いたの。
声って、こんなふうに届くんだって、思った」
彼女の言葉は、たしかに少し震えていた。
だけどそれは、恐れからくる震えじゃなかった。
心が少しずつ、動き出している音だった。
「……なら、また吹けよ」
「……え?」
「ホルン。少しずつでもいい。音、出してみろよ」
陽葵は一瞬だけ目を見開き、それからゆっくりとうなずいた。
「……ありがとう。八坂くん」
その声には、かすかに微笑が混じっていた。
それは、ほんの少し前まではなかったものだった。
彼女の心にも、志帆の“声”が届いていた。
そして、俺の“音”も、いつか——彼女の耳に、ちゃんと届くと信じたい。




