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第23話 声にならなかったことば

その日、俺は初めて「朗読ライブ」というものに足を踏み入れた。


場所は、私立明晴大学の近くにある、こぢんまりとしたブックカフェ。

壁一面に詩集やエッセイが並び、柔らかな黄色い照明が、客席のざわめきを包んでいた。


 


カフェの一角には小さなステージがあり、椅子が四列ほど並べられている。


出演者のほとんどは大学生。表情には緊張がにじんでいた。


俺も、観客席の後ろの方に座っていたが、なんとなくそわそわしていた。


 


詩の朗読——それは、音楽とはまた違う“生の声”だ。


 


開演のチャイム代わりに、カップが置かれる音が響き、最初の朗読者がマイクの前に立った。


それから、順番に淡々と朗読が続いていく。


独白のような詩、リズムのある文章、怒りをぶつけるような声、祈るような声。


——そして、間宮志帆の名前が呼ばれた。


 



 


志帆は、ゆっくりとステージに立った。


服装は黒のワンピースに、白いカーディガン。

髪をひとつに結び、普段よりも少し背筋を伸ばしている。


 


「……詩のタイトルは、『しずく』です」


 


彼女の声は小さかった。


けれど、マイクを通したその声は、不思議と耳に残る。


 


「声が、落ちていく。

 気づいてくれる人は、いなかった。

 でも私は、声を出すのを、やめなかった——」


 


観客のざわめきが消える。


彼女の声は、震えていた。


けれど、それはたしかに——届いていた。


 


「あなたは、振り返ってくれた。

 私の言葉のかわりに、ギターを差し出してくれた。

 だから私は、ようやく思えた。

 この痛みも、この沈黙も、

 あなたに届けていいんだって——」


 


俺は、目をそらせなかった。


志帆の視線が、俺を通りすぎる。

けれど、そこにいたのは「聴いてほしい」と願う、ひとりの少女だった。


 


「このしずくが、音にならなくても

 あなたが耳をすませてくれるなら

 私はもう、黙らなくていい——」


 


最後の一行を読み上げたとき、志帆の声はほんの一瞬、詰まった。


でも、すぐに持ち直し、深くお辞儀をしてステージを降りた。


 


誰もが、息を呑んだように拍手をした。


——俺も、その中のひとりだった。


 



 


終演後、カフェの裏手で彼女を見つけた。


「……お疲れ」


「……うん」


 


志帆は、肩の力を抜いたように小さく笑った。


 


「どうだった?」


「……よかった。すごく、ちゃんと届いた」


「……そっか」


 


少し沈黙が続いたあと、彼女はぼそりと口にした。


 


「ねえ、八坂くん。……私も、誰かに“支えて”ほしかったんだと思う」


 


「……それは、甘え?」


「かもね。でも……誰かが“聞くよ”って言ってくれるのって、

 こんなにうれしいんだって、今日、はじめて思った」


 


彼女は、かすかに泣きそうな顔をしていた。


けれどそれは、絶望じゃなかった。希望に触れたあとの、涙の匂いだった。


 


「……じゃあ、また何か書いたら、読めよ」


「うん。次はもう少し、明るいやつにする」


 


夜風が、少しだけ冷たかった。


だけどその中で、確かに、彼女の“声”は息づいていた。






間宮志帆の朗読が終わったその夜、俺は部屋に戻っても、ずっと彼女の声が耳に残っていた。


普段は無口で、感情をあまり表に出さない彼女が、言葉で、感情で、自分をさらけ出していた。


それがどれだけ勇気のいることだったか、考えるまでもなかった。


 


俺はギターを手に取り、何も考えずに弾き始めた。


コードはA、E、F♯m、D。何度も繰り返す、単純な循環コード。


だけどその中に、志帆の声が確かに重なるような気がした。


 


「……“届いてる”よ」


 


誰に言うでもないその一言が、夜の空気に紛れて消えていった。


 



 


翌朝。


朝の教室には、見慣れた空気と見慣れた顔が並んでいた。


その中に、陽葵の姿もあった。


彼女はいつものように無表情で座っていたが、俺が入ってきた瞬間、ほんの一瞬だけ視線を動かした。


まるで、「おはよう」と言葉を飲み込んだような、そんな表情だった。


 


俺は何も言わず、彼女の隣の席に座る。


ほんの少しの間、沈黙が流れる。


 


「……昨日、朗読会に行ってたんでしょ」


陽葵がぽつりと呟いた。


 


「……ああ。間宮が出るって聞いたからな」


「そう。……どうだった?」


「よかったよ。声、届いてた」


 


陽葵はうなずいた。


それから、少しだけ視線を伏せて、ぽつりと続ける。


 


「……私ね、人前で声を出すの、すごく苦手になっちゃって」


 


その言葉に、俺は少しだけ驚いた。


彼女はホルン奏者として、何度もステージに立ってきたはずだ。


でも、彼女が苦しんでいたものは、音じゃなくて——「声」だったのかもしれない。


 


「……怖いんだよ。間違えたらどうしようとか、

 笑われたらどうしようとか、あの頃の人たちがまた私を……って」


 


“あの頃”という言葉の裏に、吹奏楽部のしがらみや、家庭での重圧が透けて見える。


それは、彼女にとって今もまだ癒えきらない傷だった。


 


「でも——」


陽葵はゆっくりと顔を上げた。


 


「……昨日、志帆さんの朗読、配信で少しだけ聴いたの。

 声って、こんなふうに届くんだって、思った」


 


彼女の言葉は、たしかに少し震えていた。


だけどそれは、恐れからくる震えじゃなかった。

心が少しずつ、動き出している音だった。


 


「……なら、また吹けよ」


「……え?」


「ホルン。少しずつでもいい。音、出してみろよ」


 


陽葵は一瞬だけ目を見開き、それからゆっくりとうなずいた。


 


「……ありがとう。八坂くん」


 


その声には、かすかに微笑が混じっていた。


それは、ほんの少し前まではなかったものだった。


 


彼女の心にも、志帆の“声”が届いていた。


そして、俺の“音”も、いつか——彼女の耳に、ちゃんと届くと信じたい。


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