第22話 彼女の静かな変化
ライブから数日が経った。
いつも通りの大学生活が戻ってきたようで、どこか違ってもいた。
「……八坂くん、最近なんか、顔つき変わったね」
講義の後、同じ学部の同級生・遠藤にそう言われた。
「そうか?」
「うん。なんていうか、“一段落ち着いた大人”みたいな顔してる。
まあ、前から落ち着いてたけど、なんか柔らかくなった感じ」
「……ライブが終わったからじゃないか?」
俺はそう言って流す。
でも、正直に言えば——違う。
陽葵が「届いた」と言ってくれたあの一言が、
俺の中の何かを確かに変えていた。
*
昼休み。中庭のベンチに向かうと、陽葵がすでに座っていた。
あの日以来、何も約束をしていないのに、なぜかタイミングが合う。
「来ると思った」
「お前こそ」
俺たちはほとんど同時にそう言って、少しだけ笑った。
陽葵の服装はモノトーンのニットに細身のパンツという、以前より少しだけラフな格好。
こうしてみると、雰囲気が柔らかくなった気がする。
「……ライブ、よかったよ。本当に」
「お前、何回目だそれ」
「うるさい。言いたくなるくらい、ちゃんと聴こえたってこと」
彼女は、ふっと笑ったあと、少しだけ視線を逸らして言った。
「ねえ。八坂」
「ん?」
「私、また——ホルン、吹いてみようかなって、思ってる」
その言葉に、俺は一瞬だけ息を呑んだ。
「難聴が完全に治ったわけじゃない。けど……音を聴くのが、怖くなくなった」
「……あのライブで?」
「うん。ていうか——あんたが“音で言葉をくれた”から。
そっちが先だったんだと思う」
彼女の目は、まっすぐ俺を見ていた。もう怯えてはいなかった。
そして、ほんの少しだけ——俺のことを、信じようとしてくれている目だった。
「……いいと思うよ。吹けばいい。
きっとまた、好きになれるから」
そう言うと、陽葵はふっと目を細めて、俺の方へ小さく頭を傾けた。
「じゃあさ。——吹奏楽部、辞めるわ」
「……え?」
「うん。もうあそこじゃ無理。でも、個人でやってみる。
自分のために、音楽やってみたいの」
その決断は、陽葵にとって簡単なものではなかったはずだ。
でも彼女は、今、少しずつ——“前に進もう”としている。
俺は、ただ小さく頷いた。
「……そのときは、何か伴奏が要るなら、言えよ」
「ふふ……じゃあ、“あなたのギター”でお願いしよっかな」
彼女の冗談めいた言葉に、俺は返さなかった。
けれどそれは、静かで確かな——“新しい約束”だった。
*
陽葵と別れたあと、俺はひとりで図書館へ向かった。
軽音の楽譜をいくつか整理したくて、コピー機を借りるついでに、少し静かな場所に身を置きたかった。
窓際の席に座り、譜面を広げていると、斜め向かいに人影が座る気配がした。
「……こんにちは、八坂くん」
視線を上げると、そこには間宮志帆の姿があった。
文学部の同期であり、軽音サークルのライブを見に来てくれたひとりでもある。
「……よう。図書館、珍しいな」
「テスト前だけね。普段は静かすぎて落ち着かないけど」
志帆は、どこかぼんやりとした口調で笑った。
ライブのあとから少し元気がないように見えていたけれど、その理由を俺はまだ知らなかった。
「ライブ、よかったよ」
「ありがとな」
「……八坂くんの歌声、たまにすごく冷たいのに、やさしくてずるいよね」
志帆の声には、いつも感情が入りきらない。
それは彼女の性格でもあるし、何か——過去にあったことの影響でもある。
「志帆」
「なに?」
「……なんかあったか?」
彼女は少しだけ目を見開き、それからゆっくりと微笑んだ。
「うん。気づいてたんだね」
「無理に言わなくてもいい」
「ううん、話そうと思ってたから」
彼女はそう言って、視線を窓の外に向けた。
「……最近、家がちょっとごたごたしてて。
私、今の家にもうすぐ住めなくなるかもしれないの」
「……そうか」
「それだけなら、まあ大人としてなんとかしようと思ってたんだけど——
実はね、持病がまた悪化してて。通院も増えそう」
さらりと、でも静かに重たい話をするその姿に、俺は胸が詰まる。
志帆の抱えているのは“機能性疾患”だと聞いていた。ストレスが増えると、身体に強く出る。
表に出さないだけで、きっとこの数日、彼女の中では嵐が吹き荒れていたんだろう。
「無理すんなよ」
「うん。でも……ありがとう、八坂くん」
彼女はふと、カバンから何かを取り出した。
一冊の小さな詩集だった。
「これ……高校のときから書きためてたやつ。
今度、朗読ライブ出るんだ。はじめて、人前で声出してみようって思った」
「……詩、か」
「音楽と違って、声だけ。だから怖いんだけど……君のライブ見て、少しだけ勇気もらった」
その言葉に、俺は軽くうなずいた。
「じゃあ、行くよ」
「え?」
「お前の朗読ライブ。観に行くって言ってんだよ」
志帆は驚いた顔をしたあと、少しだけ涙ぐんだように見えた。
けれど、それ以上何も言わず、ただ静かにうなずいた。
彼女の声が、届きますように。
彼女の心が、少しでもほどけますように。
そんなことを、俺は心の中で願っていた。




