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第20話 君のために弾く音

ホールの裏、楽器搬入口横の非常階段——。


誰にも見つからないその場所で、陽葵は一人、膝を抱えていた。

ホルンは無造作に隣へ置かれていて、彼女の手はそのどちらにも触れていない。


 


俺は静かに階段を上り、そっと腰を下ろした。

何も言わず、ただ隣に座った。


 


しばらくの沈黙の後、陽葵が口を開いた。


 


「……見ないでよ。情けないでしょ、私」


 


「別に。昔から情けないとこばっかりだったじゃん、お前」


 


「……あんたさぁ、たまにほんとに刺すよね」


 


俺は軽く肩をすくめた。

ふと、陽葵が顔をこちらに向けてくる。目は赤く、鼻も少しすすっていた。


 


「分かってたの。今日、たぶん、こうなるって。

 でも、それでもやらなきゃって……思ったのに。結局、これだよ」


 


「それでも来たんだろ。お前は逃げなかった。それだけで十分だよ」


 


彼女はうつむき、また沈黙する。


 


俺はゆっくりと立ち上がり、背負っていたギターケースを開いた。

その場に座り直し、静かに音を鳴らす。


 


雨上がりのコンクリートに、弦の振動が淡く染みていく。


 


「なに……やってんの?」


 


「お前のために、弾いてる。理由は、ない。ただ、弾きたいから」


 


その曲は、陽葵と最後に一緒に演奏したあの曲。

高校時代、定期演奏会で演った、あの切ないマイナー調のバラード。


 


思い出す。音でしか繋がれなかった時間。

あのときの彼女のホルンは、すごく優しかった。

音だけで、たしかに心が触れていた。


 


やがて、陽葵がホルンをそっと手に取った。


 


「……合わせていい?」


 


「もちろん」


 


一音目——。


たしかに震えていた。でも、そこには強さも宿っていた。

重ねられたホルンの音は、俺のギターに寄り添うようにして進んでいく。


 


楽譜もない。ただ、心の中の記憶だけをたどって。


 


終わった瞬間、陽葵は小さく笑った。


それは、初めて見る種類の笑顔だった。誰にも媚びない、誤魔化さない、

本当に「ありがとう」と言っているような顔。


 


「もうちょっとだけ、頑張ってみる。今度は……ちゃんと、自分のために」


 


俺は頷いた。

それだけで、すべてが伝わる気がした。


 


——たぶん、俺たちはもう、過去にいない。



その日から、陽葵は少しずつ変わり始めた。


あの非常階段で音を合わせてから、彼女の顔にほんの少しだけ表情が戻ってきた気がする。

まだ目の下のクマは消えていないし、体調が万全というわけでもない。

でも、彼女は大学に来るようになった。部活にも、最低限の時間だけは顔を出している。


 


「……なんか、逆に怖いくらい穏やかね、陽葵」


 


と、今日も凛音が横で呟いた。

俺と凛音は学食のテラスで、昼の焼きそばパンを食べている。


 


「ああ見えて、意地とプライドの塊だしな。限界までは崩れないタイプ」


 


「限界、超えてたけど?」


 


「だから今は“再構築”中なんだよ」


 


凛音は珍しく声を立てて笑った。

俺の冗談で笑うなんて、随分と距離が近づいたもんだと思う。


 


「で? 陽葵とはどうなの、今?」


 


「どうって?」


 


「……バカなの?」


 


「いや、マジで分からん。俺と陽葵がどういう関係なのか」


 


凛音はパンを口にくわえながら、少しだけ真顔になる。


 


「言葉にしないと、伝わらないこともあるよ。あの子みたいに、音だけに頼って生きてきた子には、特に」


 


その言葉は、妙に刺さった。


——言葉にしないと、伝わらない。


俺は、ずっと“弾けば分かる”と思っていた。

あの非常階段で重ねた音で、彼女に少しでも何かが届いたのなら、

それでいいと、どこかで思っていた。


 


でも、きっとそれだけじゃ足りない。


 


その日の放課後。陽葵から連絡が来た。


 


《少し、話せる?》


 


向かったのは大学裏の図書館横のベンチ。あまり人が通らない場所だ。


陽葵はそこに、ひとりで座っていた。制服姿ではない私服——

グレーのニットと、淡いベージュのスカート。春の風にやさしく揺れていた。


 


「……来てくれて、ありがと」


 


「なにか話したいことでも?」


 


陽葵は、ゆっくりと頷いた。


 


「私さ、ずっと“正しくあらなきゃ”って思ってたの。

 吹奏楽で認められるには、母の言うとおりにしなきゃって。

 “演奏するのが当たり前でしょ”って、妹にも言われて。

 だから……音を失うのが、怖くて怖くて仕方なかった」


 


彼女の言葉は、少し震えていた。


 


「でも……あんたのギター、あの日、あの場所で聴いた音がさ、

 “失っても、終わりじゃないよ”って、そう言ってくれてる気がして……」


 


陽葵は、手のひらを見つめた。


 


「私、自分で音を出したくなったの。自分のために、自分の音を——」


 


その言葉を最後まで聞いて、俺は静かに目を閉じた。


そして、こう言った。


 


「——じゃあ、次のライブ、来るか?」


 


陽葵は驚いたように俺を見る。


 


「私が……? 軽音のライブに?」


 


「うん。客としてでも、裏方でもいい。

 お前が“音を取り戻す”って言うなら、俺の音を、そばで聴いてくれ」


 


彼女はしばらく考えたあと、小さく笑った。


 


「じゃあ……一番前で、聴いてやる」


 


その笑顔は、光を取り戻し始めた彼女の、最初の一歩だった。

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