第2話 “普通”という名前の沈黙
音楽は、記憶を無理やり引きずり出してくる。
いつものように配信を終えた夜。ギターをスタンドに立てて、ふと机の上を見ると、半年前の大学祭のチラシが残っていた。
その隅っこに、「吹奏楽部/講堂メインステージ 13:00~」という文字が印刷されている。
あのとき、僕は観に行かなかった。
理由は簡単だ。もう関係ないと思っていたから。
——でも、陽葵はそのとき、ひとりで泣いていたかもしれない。
***
次の日、大学の生協でパンを選んでいたら、背後から軽く肩を叩かれた。
「よう、奏! 朝から菓子パンかよ、青春してんねぇ」
「朝じゃない。昼」
「おお、正確だな。さすが未来の哲学者」
振り向くと、やはり藤瀬だった。
彼はおしゃべりで、明るくて、うるさい。だけどそれが不思議と不快じゃないのは、彼の中に“ちゃんと相手を見ている目”があるからだ。
「……昨日の配信、観たよ。あれ、新曲?」
「いや、ずっと前に作ったやつ。なんとなく思い出して弾いただけ」
「ふーん。でも、なんかさ……珍しく感情こもってたよな。女の影とか?」
唐突にそう言われて、少しだけ視線を逸らしてしまった。
「まさか。……ただ、昔の知り合いと再会しただけ」
「ふーん?」
彼の目が、ふーんのあとに3つくらいの意味を重ねている。
「高校の吹奏楽部で一緒だった子。名前は——」
一瞬、言いかけて、飲み込んだ。
なぜか“陽葵”の名前を、今この場で口に出すことに、少しだけ躊躇いがあった。
「まあ、そんだけ」
藤瀬は笑って、カフェラテを取った。
「……ま、話したくなったら話せよ。俺はそういうの、けっこう聞くの得意だぜ?」
「占い師みたいなこと言うなよ」
「バイトでやってた時期ある」
「ほんとかよ……」
笑い合ったあとの一瞬、僕の視線が、外の吹奏楽棟の方向に向いた。
そこに陽葵がいるかもしれないと思ったけれど、彼女の姿はなかった。
***
午後の講義は、いつもより集中できなかった。
筆記用具を持つ手に力が入らず、板書がただの線にしか見えない。
あの時の彼女の声。どこか乾いた笑顔。ホルンを抱えていた姿。
……やっぱり、何か変だった。
理由も根拠もない。けれど、彼女は“普通”じゃなかった。
高校時代、陽葵は怖いくらいまっすぐだった。
誤解されやすくて、でも本当は努力家で、強がりで。
「……今の彼女は、その仮面すらつけてないように見えた」
知らない間に、声が漏れていた。隣の席の学生がこちらをチラリと見たけれど、僕は気づかないふりをした。
講義の終わりを告げるチャイムが鳴る。
何かが、また遠ざかっていく音に聞こえた。
***
その日の夕方、吹奏楽棟の前を歩いてみた。
中から聴こえてくる金管の音。木管の調律。パーカッションのリズム。
その中に、ホルンの音が混じっているかどうかは、分からなかった。
そして何より、彼女がこの中にいるのかどうかも、分からなかった。
ただ、確かにあの扉の向こうには、僕の知らない彼女の“今”がある。
それを知りたいのか、それとも知らないままでいたいのか——
自分でもよく分からなかった。
次の日、陽葵を見かけたのは、図書館の前だった。
学内でも比較的人が少ないこのエリアで、
彼女はベンチにひとり腰かけ、スマホを見つめていた。
風が強く、前髪が乱れていたが、彼女はそれを直そうともしなかった。
思わず、声をかけようとして……そのまま足を止める。
どこか、近づきづらかった。
視線はスマホに落ちているはずなのに、どこにも焦点が合っていないように見えた。
まるで、彼女だけが時間から取り残されているようだった。
「——陽葵」
呼ぶ声は自然と出ていた。
彼女がゆっくりと顔を上げる。
「ああ……奏くん」
相変わらず、少し作ったような笑顔だった。
でも、それは昨日よりもさらに輪郭が曖昧だった。
「どうしたの、こんなとこで」
「んー、ちょっと……人に会いたくなくて」
「……吹奏楽部?」
「うん。まぁ、それもあるかな」
ふわっとした返答。
何かをはぐらかすような言葉に、僕は一瞬だけ口を閉じた。
「最近、講堂からあんまりホルンの音、聴こえないなって思ってさ」
「……あれ、聴こえるんだ」
彼女が少し驚いた顔を見せる。
「うん。音は好きだから。つい、耳が向いちゃう」
「……そうなんだ」
その時、彼女の笑みが一瞬だけ、ほんの一瞬だけ歪んだ気がした。
まるで、「耳が向く」という言葉に反応したかのように。
沈黙が流れる。
ああ、またやってしまった。何気ない一言で、何かを踏み込んだ気がする。
でも、それが何なのか分からない。
「……なんか、ごめん」
「ううん。気にしてないよ」
けれどその返事も、どこか遠くから返ってきたように聞こえた。
「じゃあ、私、そろそろ行くね」
「うん」
「また、会えたら」
「……ああ」
そして彼女は、僕の前を通り過ぎると、校舎の影に消えていった。
風が吹き、落ち葉が舞う。
その背中に、声をかけることはできなかった。
***
その夜。
ギターの弦を張り直す手が、やけにぎこちなかった。
画面越しのコメントも、音も、ノイズのように感じられる。
『今日の君は、少しだけ空を見ていた。』
そんな歌詞を、なんとなくノートに書いてみた。
でも、そこから先の言葉が続かなかった。
ふと、スマホに通知が来た。
【吹奏楽部の公式SNS】の更新だった。
『本日の練習は、ホルンパートのみ時間をずらして行います』
その一文を見て、僕の手が止まった。
“ホルンパートのみ”——
なぜだろう。その言葉に、妙に胸がざわついた。
***
数日後、陽葵は大学に姿を見せなくなる。
それはまるで、自然に消えてしまったかのようだった。
誰も彼女の不在を話題にせず、誰もその理由を問わない。
ただ僕だけが、
その静かな“違和感”のなかで、確信し始めていた。
——何かが起きている。