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第19話 ホルンの記憶、雨の匂い

凛音との夜練から数日後——。


今日も変わらず、俺は明晴大学の講義棟を歩いていた。

時間は昼過ぎ。空はどんよりと曇っていて、雨が降り出しそうだった。


 


キャンパスの片隅にあるベンチに、陽葵の姿があった。

鞄を抱えるようにして膝にのせ、何か考え込んでいる。

普段は人目を気にせず行動する彼女にしては、ずいぶんと物静かな印象だった。


 


俺は声をかけるべきか迷いながら、でも結局、歩みを止めてしまった。


 


「……調子悪い?」


 


「えっ……あ、ああ、別に。ちょっと、考えごとしてただけ」


 


陽葵は俺に気づくと、すぐにいつもの調子に戻ったふうを装った。

けれど、その声にはどこか力がない。


 


「どうした?」


 


「……あのさ、ひとつお願いがあるんだけど」


 


陽葵がそう切り出した瞬間、空からぽつり、と雨が落ちてきた。

まるで、その言葉に合わせたように。


 


「今週末、部活の合奏があるの。先生が来る特別練習。

 ……それに、来てくれない?」


 


その言葉に、俺は眉をひそめた。


 


「合奏? 俺が行っても……何もできないだろ」


 


「ううん。そうじゃなくて……ただ、そばにいてほしいだけ。

 ……私、多分、また潰れそうになるから」


 


静かな声だった。

高圧的で、強気な彼女とはまるで違う。


 


「本番で、うまく吹けなかったら、もうやめろって言われるかもしれない。

 それが怖いの。……でも、怖いって言ったら、弱くなるのも嫌で……」


 


陽葵は俯いたまま言葉を継いだ。

その姿は、まるで自分自身と戦っているようだった。


 


「分かった」


 


俺は短く答えた。

それ以上、理由も説明も必要なかった。


 


陽葵が顔を上げた。少しだけ驚いたような表情で。


 


「……え、ほんとに? あんた、そういうの嫌がるタイプじゃなかった?」


 


「そう思ってるのは、お前だけだ」


 


「……へえ。優しいとこ、あるんだね」


 


その言葉に皮肉はなかった。

代わりに、ほんの少しだけ、救われたような表情がそこにあった。


 


そして、そのまま彼女は立ち上がり、俺の腕を軽くつかんで言った。


 


「雨、強くなりそう。ちょっと、屋根あるとこまで来て。……あんた、風邪ひいたら困るし」


 


誰が誰を気遣っているのか、よくわからなかった。

でも、今の陽葵は、たしかに弱さを隠していない。


 


そのことが、妙に嬉しかった。



土曜の午後、私立明晴大学の音楽ホール。


舞台には、数十名の吹奏楽部員たちが並び、静かに楽器の調整をしていた。

その中央に、ホルンを持って立つ陽葵の姿がある。


 


照明の当たる彼女は、どこかいつもより小さく見えた。

目は前を向いていても、どこか遠くを見ているような焦点の合わない視線。

あの陽葵が、こうも無防備に不安を漂わせているなんて——。


 


「陽葵、顔色悪いな」


 


ホールの後方、立ち見席の陰にいた俺の横に、凛音がぽつりと呟くように言った。

彼女はなぜか今日もついてきていた。

「別に暇だったから」と言いながら、やけに真剣な眼差しで舞台を見つめている。


 


指揮者が立ち上がり、合奏が始まる。


音が重なり、空気が震える。


 


けれど、その中で、陽葵のホルンだけが微妙に揺れていた。

テンポからわずかに遅れ、音程も定まらない。

本人の表情からは必死さが伝わってくるのに、音が追いついてこない。


 


——そして、事件は起きた。


 


「ホルン、そこ、遅れてる!」


 


先生の怒鳴り声が響く。

陽葵の体がびくりと揺れた。ホルンを持つ手がわずかに震えている。


 


「もう一度。最初から!」


 


再度始まった演奏。だが、陽葵の音はさっきよりも小さくなっていた。


 


見ていられなかった。


 


凛音が、隣で小さく囁いた。


 


「彼女……家、相当キツいんでしょ?」


 


俺は驚いたように凛音を見た。


 


「知ってたのか」


 


「昨日、偶然。音楽棟の裏で電話してるの、聞いちゃった。……母親っぽかった」


 


凛音の表情は淡々としていたが、その目は怒っていた。

静かな怒り。彼女の本気は、怒鳴るよりも怖い。


 


「“あんた、また無駄なことして。下手なままなら帰ってこなくていい”って」


 


その言葉を聞いて、俺は喉の奥が焼けるような感覚に襲われた。


 


——まだだ。俺は、何もしていない。


 


再び舞台に視線を戻すと、演奏が終わり、陽葵はその場に膝をついていた。

ホルンを抱えるようにして、肩を震わせている。


 


気がつけば、俺の足は勝手に動いていた。

客席の通路を抜け、楽屋口へと向かう。


 


彼女を、止めないと。


彼女を、抱えてでも、引き上げなきゃいけない。


 


言葉じゃない。

俺ができることは、あのときと同じ——音で、寄り添うことだけだ。

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