第18話 深海に射すライトの色
「……このコード進行、こっちのほうが自然じゃない?」
そう言って、俺の隣に座った倉本凛音が、自分のノートパソコンの画面を差し出してきた。
その画面には、彼女が打ち込んだバンドアレンジのデータ。
ソフト上で再現された音源が、淡々と流れる。
「たしかに、Bメロの入りが滑らかになった。耳馴染みも良くなってるな」
「でしょ? あ、でも……ちょっと理論的には強引だから、好み分かれるかも」
凛音はそう言いながらも、ほんの少しだけ誇らしげだった。
普段は冷静で、ほとんど感情を見せない彼女が、こんなふうに表情を緩めるのは珍しい。
今日は軽音サークルの曲作り会議の日だった。
ライブに向けて、バンドとしての完成度を高めるため、編曲の最終調整をしている。
その作業の中心に、凛音がいた。
デジタルにも強く、クラシックの素養もある彼女は、まるで全体を俯瞰する指揮者のように、要所要所で的確な意見を出してくれる。
「凛音って、理論に強いのに、耳も感覚もいいよな。やっぱり、ピアノずっとやってたからか?」
「そうかもね。でも、私……音楽に“情熱”とか“魂”とか求めるの、苦手なの」
その言葉に、一瞬だけ違和感を覚えた。
「……それは、どうして?」
凛音は、画面の向こうを見つめたまま、静かに言った。
「そういうの、いつか裏切られる気がするから」
その声音には、重たい水のような沈黙が滲んでいた。
理由を聞くのは、今じゃない。そう判断して、俺はそれ以上問い詰めなかった。
代わりに、PCの再生ボタンを押す。
そして、彼女が書いた新しい構成で、もう一度自分のギターを弾いた。
音が重なる。
凛音の目が少し見開かれ、そして微かに——本当に微かに、笑ったような気がした。
「……へえ。人の音で聴くと、思ったより、いいかも」
「そっちのアレンジでいこう。ライブのラスト曲はこれにしようぜ」
俺がそう言うと、凛音は少しだけ視線をそらして、小さくうなずいた。
「じゃあ……また、練習付き合ってくれる?」
その一言は、どこか――寂しさを隠すような、仄かな願いのようだった。
(凛音もまた、自分の“音”を探してる)
感情を音で伝えることが怖い人間。
それでも、音の中に何かを残したいと思ってる人間。
そういう人の隣で、俺がギターを弾けるなら——
それは、きっと意味のあることなんだろう。
*
音楽室の窓に、夕日が射し込む。
放課後のサークル活動が終わったあと、凛音とふたりで残って練習していた。
彼女が提案した新しいアレンジは、シンプルだけど芯がある。
俺のギターと彼女のピアノ、それぞれの音が、自然と溶け合っていく。
「……やっぱ、合うな。この構成」
俺がそう呟くと、凛音は小さくうなずいて、少しだけ笑った。
「言ったでしょ? 感覚的には悪くないって」
彼女のピアノは冷静で正確だ。けれど、その中に、ほんのかすかな熱がある。
それは、彼女が普段見せない“なにか”が、音に滲んでいる証拠だった。
「……小さいころさ」
ふいに、凛音がぽつりと話し始めた。
「ピアノ、毎日弾かされてたの。母が音大のピアノ科出身で。
『あなたはもっと上手くなれる』って、毎日のように言われて」
言葉の調子は変わらなかった。淡々として、静かだった。
でも、その目だけは少しだけ揺れていた。
「最初は、好きだったんだよ。ピアノ。
でも、いつからか、“音”が母親の声に聞こえるようになって……」
そこまで言って、凛音はふっと小さく息を吐いた。
「それで、やめたの。全部。クラシックも、母も。
でも、音楽だけは……やっぱり、捨てられなかった」
俺は、何も言わなかった。言葉を挟む余地はなかった。
ただ、手元のギターに視線を落とし、静かにコードを爪弾く。
凛音は、その音に反応するように再び鍵盤に手を置いた。
ギターとピアノが、そっと重なる。
会話じゃない。だけど、たしかに“何か”が通じ合っていた。
言葉よりも、音のほうが、伝わることもある。
いや、音でしか伝えられない感情が、確かにある。
最後の音が消えたとき、凛音はほんの少しだけ口元を緩めた。
「……ありがとう」
「俺はただ、弾いてただけだよ」
「うん。でも、わたし、今まで誰かとこうやって音を合わせて、心地よかったと思えたの、初めてかもしれない」
その声は、静かで、でもどこか救いのようなものがあった。
「ねえ」
凛音が言った。
「私、たぶん、人を好きになるのが怖いんだと思う。
でも、あんたと音を重ねてるときだけは……少しだけ、ましになる」
俺は何も答えなかった。
答えるべき言葉が、まだ見つからなかったから。
でも、ギターを手放さなかったこと。
凛音のピアノに、黙って寄り添ったこと。
そのすべてが、たぶん、今は返事だった。




