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第15話 静かに、戻ってくる音

その日を境に、彼女は少しずつ戻ってきた。


 


最初は、誰にも気づかれないくらいの変化だった。

登校の頻度が増えた。

昼休みに中庭のベンチで一人で過ごすことが減った。

そして、俺の弾き語り配信には、必ず“r_hk”のコメントがつくようになった。


 


だけど、吹奏楽部にはまだ戻っていなかった。


 


陽葵は焦らなかったし、俺も急かすつもりはなかった。

むしろ、あのとき一度壊れかけた彼女がこうして少しでも“前を向けている”ことが、

ただそれだけで十分だった。


 


「——なあ、最近の君の歌、ちょっと変わったよな」


 


授業のあと、陽翔がそんなことを言ってきた。


 


「……変わった?」


 


「うん。なんていうか、“人のために歌ってる”って感じがする。

 前はもっと独り言みたいだったけど、今は、ちゃんと誰かに届けようとしてる」


 


その言葉に、少しドキリとした。


 


(……バレてるのか?)


 


陽翔は俺が誰に歌を向けてるかまでは言わなかった。

でも、彼は鋭い。きっと、薄々気づいてる。


 


「別にさ、誰のために歌ったっていいと思うよ。

 でも、誰かのために歌うって、案外しんどいよな。

 期待とか、責任とか、知らないうちに背負うし」


 


俺は小さく笑った。


 


「うん。でも、それでもいいかなって思ってる」


 


陽翔がニッと笑った。


 


「……らしくねーな。お前、そういうの冷めてたじゃん」


 


「今は、ちょっと変わったんだよ。俺も、たぶん」


 



 


その日の夜、陽葵からLINEが来た。


 


今日、部活に顔出してみた。

まだちょっと怖かったけど、音楽室の匂いが懐かしかった。


 


俺は少し迷ってから、返信した。


 


おかえり。


 


数分後。


 


……ただいま。


 


たったそれだけのやりとりで、心の奥に柔らかい音が鳴った気がした。


 


(続きは、音で伝えるよ)


 


次の配信の日、俺は彼女のために一曲書き下ろした。


 


曲のタイトルはまだない。

でも、それは確かに、彼女が“戻ってきた”ための、最初の記念になった。


「——ただいま」


 


その一言を聞いたとき、俺の胸の奥に小さな灯りがともった。

文字で交わした“ただいま”よりも、実際の声はずっと温かかった。


 


陽葵が、音楽室に戻ってきた。


 


まだ部活への復帰はしていない。

でも今日は、音楽室を借りて一人でホルンを吹く、という約束だった。


 


「久しぶりに吹いたら、唇がうまく動かなくてさ」


陽葵は小さく笑いながら、ホルンのマウスピースを親指でなぞっていた。


「それに……やっぱり少し聴こえづらい。右側の音が、こもる感じ」


 


「それでも、吹いたんだろ」


 


「うん、吹いたよ。——下手くそだったけどね」


 


「……それは、俺と同じだ」


 


「あなたが?」


と彼女は首をかしげる。


「ギター、めちゃくちゃ上手いじゃん」


 


俺は首を横に振った。


 


「いや、最初の頃の話。吹奏楽辞めた直後、何もかもうまくいかなくて。

 ギターの弦、3日で4回切った」


 


それを聞いて、陽葵は声を殺して笑った。

その笑いが、どこか懐かしい空気を連れてくる。


 


「でも、君が“また吹いてみたい”って言ったあの日、

 俺、やっと自分の音楽が意味を持った気がした」


 


彼女は驚いたように、俺を見た。

その瞳に、少しだけ戸惑いがあった。

でも、それは決して拒絶ではなく、何かを受け止めようとする揺らぎだった。


 


「——ねえ、あなたが作ったあの曲。

 配信で歌ってたやつ。タイトル、まだつけてないって言ってたよね」


 


「ああ。あれは、まだ君が戻ってくる途中だったから。

 “完成”じゃなかったんだ。君がまた音楽を吹けるようになったら、

 そのとき初めて、曲として完成するんだと思ってた」


 


陽葵は静かに、頷いた。


 


「じゃあ、完成させてよ」


 


「……え?」


 


「私、今日ちゃんと吹いたから。たぶん、もう大丈夫だから。

 だから、あなたのその曲、私に“くれない”?」


 


俺はしばらく黙っていた。

何かを言おうとするたび、喉がつまったようになった。

でも、やがて口から出たのは、たった一言だった。


 


「——ああ。じゃあ、タイトルも決めよう」


 


陽葵が、うれしそうにうなずいた。


 


俺はギターケースから楽器を取り出して、

音楽室の小さな椅子に座った。


 


彼女が隣でホルンを構える。


 


ふたりの音が、同じ空間で響くのは、

高校以来——いや、それ以上に、特別な瞬間だった。


 


「タイトルは……“リード音が聞こえる場所で”。」


 


「……どうして?」


 


「リード音って、管楽器にとって“出発点”みたいな音だろ。

 君が、また出発できる場所であってほしいって思ったから」


 


陽葵は黙って頷き、

そして、ふたりは同時に音を鳴らした。


 


ギターのアルペジオと、ホルンの温かい低音が、

静かな音楽室を満たしていく。


 


そしてその音は、確かに、

“誰かの耳”へ向かって届いていた。

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