第15話 静かに、戻ってくる音
その日を境に、彼女は少しずつ戻ってきた。
最初は、誰にも気づかれないくらいの変化だった。
登校の頻度が増えた。
昼休みに中庭のベンチで一人で過ごすことが減った。
そして、俺の弾き語り配信には、必ず“r_hk”のコメントがつくようになった。
だけど、吹奏楽部にはまだ戻っていなかった。
陽葵は焦らなかったし、俺も急かすつもりはなかった。
むしろ、あのとき一度壊れかけた彼女がこうして少しでも“前を向けている”ことが、
ただそれだけで十分だった。
「——なあ、最近の君の歌、ちょっと変わったよな」
授業のあと、陽翔がそんなことを言ってきた。
「……変わった?」
「うん。なんていうか、“人のために歌ってる”って感じがする。
前はもっと独り言みたいだったけど、今は、ちゃんと誰かに届けようとしてる」
その言葉に、少しドキリとした。
(……バレてるのか?)
陽翔は俺が誰に歌を向けてるかまでは言わなかった。
でも、彼は鋭い。きっと、薄々気づいてる。
「別にさ、誰のために歌ったっていいと思うよ。
でも、誰かのために歌うって、案外しんどいよな。
期待とか、責任とか、知らないうちに背負うし」
俺は小さく笑った。
「うん。でも、それでもいいかなって思ってる」
陽翔がニッと笑った。
「……らしくねーな。お前、そういうの冷めてたじゃん」
「今は、ちょっと変わったんだよ。俺も、たぶん」
*
その日の夜、陽葵からLINEが来た。
今日、部活に顔出してみた。
まだちょっと怖かったけど、音楽室の匂いが懐かしかった。
俺は少し迷ってから、返信した。
おかえり。
数分後。
……ただいま。
たったそれだけのやりとりで、心の奥に柔らかい音が鳴った気がした。
(続きは、音で伝えるよ)
次の配信の日、俺は彼女のために一曲書き下ろした。
曲のタイトルはまだない。
でも、それは確かに、彼女が“戻ってきた”ための、最初の記念になった。
「——ただいま」
その一言を聞いたとき、俺の胸の奥に小さな灯りがともった。
文字で交わした“ただいま”よりも、実際の声はずっと温かかった。
陽葵が、音楽室に戻ってきた。
まだ部活への復帰はしていない。
でも今日は、音楽室を借りて一人でホルンを吹く、という約束だった。
「久しぶりに吹いたら、唇がうまく動かなくてさ」
陽葵は小さく笑いながら、ホルンのマウスピースを親指でなぞっていた。
「それに……やっぱり少し聴こえづらい。右側の音が、こもる感じ」
「それでも、吹いたんだろ」
「うん、吹いたよ。——下手くそだったけどね」
「……それは、俺と同じだ」
「あなたが?」
と彼女は首をかしげる。
「ギター、めちゃくちゃ上手いじゃん」
俺は首を横に振った。
「いや、最初の頃の話。吹奏楽辞めた直後、何もかもうまくいかなくて。
ギターの弦、3日で4回切った」
それを聞いて、陽葵は声を殺して笑った。
その笑いが、どこか懐かしい空気を連れてくる。
「でも、君が“また吹いてみたい”って言ったあの日、
俺、やっと自分の音楽が意味を持った気がした」
彼女は驚いたように、俺を見た。
その瞳に、少しだけ戸惑いがあった。
でも、それは決して拒絶ではなく、何かを受け止めようとする揺らぎだった。
「——ねえ、あなたが作ったあの曲。
配信で歌ってたやつ。タイトル、まだつけてないって言ってたよね」
「ああ。あれは、まだ君が戻ってくる途中だったから。
“完成”じゃなかったんだ。君がまた音楽を吹けるようになったら、
そのとき初めて、曲として完成するんだと思ってた」
陽葵は静かに、頷いた。
「じゃあ、完成させてよ」
「……え?」
「私、今日ちゃんと吹いたから。たぶん、もう大丈夫だから。
だから、あなたのその曲、私に“くれない”?」
俺はしばらく黙っていた。
何かを言おうとするたび、喉がつまったようになった。
でも、やがて口から出たのは、たった一言だった。
「——ああ。じゃあ、タイトルも決めよう」
陽葵が、うれしそうにうなずいた。
俺はギターケースから楽器を取り出して、
音楽室の小さな椅子に座った。
彼女が隣でホルンを構える。
ふたりの音が、同じ空間で響くのは、
高校以来——いや、それ以上に、特別な瞬間だった。
「タイトルは……“リード音が聞こえる場所で”。」
「……どうして?」
「リード音って、管楽器にとって“出発点”みたいな音だろ。
君が、また出発できる場所であってほしいって思ったから」
陽葵は黙って頷き、
そして、ふたりは同時に音を鳴らした。
ギターのアルペジオと、ホルンの温かい低音が、
静かな音楽室を満たしていく。
そしてその音は、確かに、
“誰かの耳”へ向かって届いていた。




