第14話 届いてしまった音
「最近さ、陽葵見ないよな」
陽翔がふと漏らした一言に、俺は一瞬、ピックを落としかけた。
それは、俺がここ数日、ずっと気にしていたことだった。
彼女のことを“気にしている”と明言したくなかった。
……でも、否応なしに意識してしまう。
(たしかに……あれ以来、練習にも来てない)
最後に見たのは、あの雨の日の翌朝だった。
傘もささず、ずぶ濡れのまま校舎へ入っていく後ろ姿。
声をかけようとして、何も言えなかった。
「陽葵先輩、最近部室にも顔出してないみたいで……」
と、小春がぽつりと呟く。
彼女は吹奏楽部の後輩で、陽葵とパートも近かった。
「部活、辞めるんじゃないかって噂もあって。
この前なんか、先輩のロッカーが勝手に空けられてて……」
「勝手に、って……それ、誰が?」
「たぶん、あの人たちです。3年の——」
言葉が濁されたが、俺はすぐに察した。
かつて陽葵が言っていた、“居場所がない”という言葉の意味を。
陽翔と由香は顔を見合わせたが、誰も何も言えなかった。
*
その日の夜、俺は何気なくアーカイブを見返していた。
過去に自分が配信した、弾き語りの動画。
コメント欄をぼんやり眺めていた時だった。
——見つけてしまった。
「また聴きにきちゃった。あなたの声は、すごく優しいから」
「今日も誰にも言えなかった。でも、あなたの歌を聴くと、ちょっとだけ泣ける」
「次の配信、楽しみにしてます。私、ここでしか安心できないから」
アカウント名は“r_hk”。
そのアイコンに見覚えはなかった。
けれど、文体も、語尾の癖も、言葉の選び方も——
……“彼女”だった。間違いない。
俺の知らないところで、ずっと俺の声を聴いていた。
(俺は……何も気づいてなかった)
吹奏楽も、音楽も、もうやらないって決めていた。
でも、結局こうして、音楽でしか繋がれない人間関係に、自分は支えられていた。
それを知ってしまった今、見て見ぬふりなんてできなかった。
翌日。
俺は授業を終えたあと、ふらりと図書館の裏にある小さなベンチへ向かった。
そこに、陽葵がいた。
イヤフォンをしたまま、目を閉じていた。
だけど俺の足音に気づいたのか、片耳のイヤフォンを外して、こちらを見上げた。
「……来ると思った」
その言葉は、不思議と刺々しくはなかった。
彼女の目は、何かを諦めた人間の、それだった。
「俺、ずっと気づいてなかったんだなって思ってさ。
……“r_hk”って、君だったんだろ?」
陽葵の肩がわずかに震えた。
それが、肯定のサインだと理解するのに、時間はいらなかった。
「……届いて、たんだね」
彼女の声は、驚くほどかすれていた。
「君の耳に、僕の音が届くなら——って、ずっと思ってたんだ。
でも、届いてしまった今、どうすればいいのか分からないよ」
俺の言葉に、陽葵は俯いたまま、微笑んだ。
「……ごめんね」
その言葉を、陽葵が最初に口にした。
まるで、謝ることがすべての始まりだと決めているかのように。
「本当は、ずっと辛かった。
音楽も、人間関係も、家も……全部、怖くなってた」
彼女は目を伏せたまま、手元のイヤフォンを指先で絡めていた。
「演奏がうまくいかないと、怒られる。
うまくいっても、妬まれる。
家に帰っても、『またそんな無駄なことして』って、母も妹も……誰も、味方がいなかった」
彼女の口からあふれる言葉は、ひとつひとつが重たくて、静かな怒りに満ちていた。
でも、それ以上に、深い悲しみがあった。
「それでも、私は“音”を手放せなかった。
手放したら、本当に何もなくなる気がして……」
俺は、何も言えなかった。
言葉は、ただの慰めになってしまいそうで。
それよりも、この場所に“いる”という事実だけが、いま彼女に必要だと思った。
「あなたの配信、最初は偶然だったんだ。
でも、聴いてると……気持ちが少しずつ溶けていった」
陽葵の声がかすかに震える。
彼女の瞳には、にじむものがあった。
「——ねえ、どうしてあなただったのかな」
「それは……」
答えは、たぶん俺にもわかっていない。
でも、口から出たのは、たったひとつの言葉だった。
「君の音が、俺に届いてたから」
陽葵は目を見開いた。
その一瞬の表情に、彼女の心が大きく揺れたのがわかった。
「俺、もう音楽やらないって決めてたけど……
たぶん、君の音がずっと俺の中に残ってたから、ギターを手放せなかったんだと思う」
風が吹いた。
春の終わりを告げるような、柔らかい風だった。
「もう無理だと思ってた。
もう一度“吹きたい”って思うなんて、自分でも信じられなかった」
陽葵はそう言って、小さく笑った。
「でも、今は……ちょっとだけ、思う。
——また、音楽やってみたいかも、って」
その言葉を聞いた瞬間、俺は自然と微笑んでいた。
彼女の中で、ひとつの終わりが静かにほどけて、
同時に、何かが静かに始まりかけている。
「じゃあ、また今度、配信聴いてくれる?」
「うん。……でも、次は、私も“音”で返すから」
そう言って彼女は、初めてまっすぐ俺を見た。
その瞳には、もう“さよなら”は映っていなかった。




