第13話 誰かの代わりじゃなく
「……なんか、にぎやかになってきたな、サークル」
陽翔が笑いながら、スタジオの片隅で缶コーヒーをあおる。
隣では由香が、新しく借りた譜面台を一生懸命組み立てていた。
「軽音って、楽器できないとダメですか?」
「いや、むしろ“軽音”って名前なのに、ボーカルだけの人とかいるしな」
「そうなんですか……!」
由香は目を丸くして、小さく笑った。
最近、ようやく彼女の笑顔を自然に見られるようになってきた。
それでも、彼女の演奏を聴くたびに、俺の胸の奥に、違和感のようなものが沈んでいく。
彼女の音には、“誰か”が棲んでいるような気がするのだ。
それは——たぶん、陽葵のことだった。
「由香ちゃんって、陽葵ちゃんと知り合い?」
ふとした瞬間、藤瀬がそう問いかけた。
リズムチェックの合間の軽い雑談、のはずだった。
「えっ……えっと……」
由香はほんの一瞬だけ、戸惑いの色を浮かべた。
そして、言った。
「……一方的に、知ってるだけです。高校の時の、吹奏楽コンクールで何度か……」
その一言に、スタジオの空気がわずかに変わったのを感じた。
俺は無言のまま、チューナーをいじるふりをして、視線を逸らす。
「すごく、上手で……すごく、怖くて」
「怖くて?」
「はい。演奏中の顔が、すごく冷たくて……
でも、音は、すごく、優しくて……矛盾してて、どうしても忘れられなくて……」
ああ、それは——俺も同じだった。
陽葵の音は、いつも“本音”に満ちているのに、彼女の表情はその真逆で。
人を寄せつけないくせに、誰よりも助けを欲しがっていて。
「でも……あの人みたいには、なれません。私は私の音を探したい」
由香は、ぽつりとそう言って、小さく首を振った。
それが、決意のようなものに聞こえたのは、たぶん俺だけじゃなかったと思う。
その日の練習が終わった後、俺は彼女と二人で駅まで歩いた。
「君の音、俺は好きだよ」
俺がそう言うと、由香は少し驚いた顔をしてから、はにかんだ。
「……でもそれ、陽葵さんと比べて、じゃないですよね?」
「……ああ、もちろん」
“誰かの代わり”じゃない音が、ここにある。
そのことに気づけたのは、きっと由香自身だった。
そして、俺もまた——
* * *
週明けの放課後。
俺は、スタジオの扉の前で立ち止まった。
——中から、音が聞こえていた。
クラリネットの音。
……由香の、音だった。
誰もいないはずのスタジオで、彼女はひとり、譜面も見ずに音を紡いでいた。
それは曲になりきらない、即興のようなフレーズだった。
不安定で、でも、綺麗だった。
「……聴いてたんですか」
俺に気づいた彼女は、恥ずかしそうに肩をすくめた。
少し汗ばんだ額をタオルで拭いながら、はにかむ。
「音の練習って、ちゃんと譜面使わないとって思ってたけど……
今日は、なんか“音を吐き出したくて”来ました」
「それ、たぶん一番大事なやつだよ」
俺は笑ってそう返す。
楽譜をなぞることは、正確な演奏の訓練にはなる。
でも、“音楽”になるかは、また別の話だ。
「……本当に、そう思いますか?」
「俺、配信でもよく即興やるし。
その時の気分で弾いて、歌って、なんとなく伝わると、ちょっと嬉しくなる」
「私、最近ようやく分かってきました。
“うまく吹こう”って思うと、音が固くなるんです。
でも、“届けたい”って思うと、音が、少しだけ、やわらかくなる」
由香はそう言って、また楽器を構える。
「もう一回だけ、聴いてくれますか?」
俺は黙ってうなずいた。
彼女はクラリネットを口元に運び、深く息を吸って——
——優しい旋律を、奏でた。
今度の音は、さっきよりも、もっとずっと彼女の“気持ち”が乗っていた。
心の中に閉じ込めていた何かが、音の隙間から溢れてくるような演奏だった。
終わった後、俺は拍手も言葉もなく、ただ小さくうなずいた。
由香も、それで十分だと分かっていたみたいだった。
「……陽葵さん、あんなに完璧だったのに、部活やめたりして。
正直、“どうして?”って思ってました。でも、今なら、少し分かるかも」
「“音楽が好き”だけじゃ、続けられないときってあるからな」
「それでも、私は、やっぱり“音楽で生きたい”です。
——まだ、誰にも言ってないですけど」
俺は少し目を見開いて、彼女を見た。
彼女は笑っていた。心からの笑顔だった。
「“君の耳に、僕の音が届くなら”——
そんな言葉、なんか素敵ですね。……勝手に、思ってました」
「……え?」
「えっ、あ……ごめんなさい、急に! 変ですよね、うん!」
由香が慌てて顔を背ける。
けど、俺は少しだけ笑っていた。
彼女はまだ知らない。
その言葉を、かつて俺が心の中で何度も唱えたことを。
——あのとき、陽葵に届いてほしかった言葉でもあることを。




